士族民権家の登場
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概要
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いわゆる征韓論争による分裂により下野した板垣は、「民選議院設立建白書」を提出した後、土佐に帰郷し、一八七四 (明治七) 年四月、立志社を設立した。板垣が立志社を設立した第一義的理由は、常職を失い失業者の群となった士族を組織のなかに囲い込み、暴発を防ぐことにあり、板垣たち領袖の任務は、かれら士族に就産への道を指し示し、あわせて士族の精神的鼓舞に努めることにあった。設立に際して作成された二つの「趣意書」は、自助の精神に貫かれた。それは、立志社という名称自体がS・スマイルスの『自助論』を訳出した中村敬宇『西国立志編』の「立志」に由来することにふさわしかった。「趣意書」によれば、自助の精神は政治的市民のすすめであったが、その前提として士族は物質的に自立すべきであった。その意味で自助の精神は、士族に自労自食のすすめとして機能した。設立時立志社の活動が、士族の生活協同組合あるいは生活互助会としてのそれであったのは蓋し当然であった。
- 1996-03-15