武田泰淳『上海の蛍』から見た「中日文化協会」
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
中日文化協会は、日本文化政策遂行機関として、日中戦争期、一九四〇年に発足した,本部に当たる「総会」を南京に置き、華中及び華南各地には分・支会(支部)を擁していた。一時、日本文化の中国浸透の中心的役割を期待され、相当な影響力と発言権を待っていた。なかんずく上海分会は、複雑極まりない政情及び諸外国利害関係の錯綜していた上海という都市に置かれただけに、その活動が注目され、また、様々な事情により理事長の更迭と組織の改組も繰り返された、この一分会を通して戦時日本の文化行政や日中両国の文化交流、文学者の交渉の様相が見えてくる、しかし、協会の性格からか、戦後、関係者は協会についてほとんど語っていない。それをテーマとした研究論文の発表はもちろん、基礎資料の整備もされていない。本稿は武田泰淳の『上海の蛍』を切り口に、聞合取りを含めた中国現地で入手した資料調査を提示して、上海中日文化協会の輪郭を捉え、その実像に迫ろうとするものである。
- 2005-03-15