桑名藩文政一揆について
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概要
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文致6(1823)年8月上旬に蜂起した「桑名藩文政一揆」は、藩主の国替により以前より開講していた助成講の講掛金返還をめぐる事件である。この事件を複数の史料から構築したのが当考察である。各史料が異なった立場から記されていることに着目し、一揆の背景から終息、事後処理をまとめたものである。桑名藩は助成講という講を開いていたが、文政6年幕府から武蔵国忍へと国替を命じられた。講に加入していた農民らは在方の講加入を勧めた役人らに講掛金の返還を要求したが、埓があかず訴願のため城下の役所へ詰めかけた。城下へ詰めかける農民が増長したため、藩では農民らと交渉の用意をしながら一揆の蜂起に備えた。8月6日から7日にかけて打壊しが始まり、一揆へと化した。農民らは武装し近隣村々の庄屋宅を襲撃した。このとき一揆鎮静に導いたのは、本願寺御坊輪番の寺僧・笠松役所及び桑名藩郡奉行らの説諭であった。町屋川原で農民の訴願を聞届ける旨を約束したため一揆は解体するが、一方領主側に召捕らえられた農民に因果を含めて開放し一揆を鎮めるという手段も模索された。一揆終焉後、国替は無事完了し入封してきた松平越中守家と、かつての領分の一部を忍領として残し国替となった松平下総守家との立会によって一揆に関わる吟味が行われた。そして、3名が死罪となる。また、笠松役所によって「聞届」を約束された要求の多くは叶えられなかった。領主側は「聞届」と「聞済」の語意の違いをもって農民らの要求は叶えたと主張する。が、農民らは異議を唱えることなく一件は落着した。以上の動きを複数の史料から紹介したものである。
- 2005-03-20