芥川が中国旅行に求めたもの : 「北京日記抄」
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概要
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大正十年三月下旬から七月中旬までの中国旅行中、芥川の北京に滞在していた期間は、六月十二日から七月十日までの、約一ヶ月の間である。旅行記としての「北京日記抄」は一九二五(大正十四)年六月一日に発行された「改造」の、第七巻第六号に掲載され、のち『支那遊記』に収められた。芥川は、自分の北京体験を「北京日記抄」に措いているが、北京が大変気に入っている様子が、本文から読み取れる。周知の通り、中国旅行記の『支那遊記』の中、芥川は上海を中心とする南に対して、不満だらけであると言っても過言ではない。しかし、その中で北京に対する感情が、他の地方と違う。芥川より先に中国に渡った谷崎潤一郎(大正七年)や佐藤春夫(大正八年)は、いずれも中国の南方が気に入っている。当時の芥川は、谷崎の中国旅行から生まれた「秦淮の夜」の影響を受けて、「南京の基督」(大正九年七月)を書いた。このような経験があるにもかかわらず、南方を旅行していた芥川は、迷わず両氏と正反対の態度を取った。その態度の裏にはなにがあるのか。風景や芸術の外に、彼の北京にこだわる理由は、まだ何かあるのではなかろうか。その理由を探るには、まず、大正十年前後の、芥川の私生活と創作生活と結合して分析する必要がある。中国旅行と当時の芥川の生活を結び付けて考えると、彼の北京にこだわる理由として、もう一つの理由が浮かんでくる。
- 2005-09-30