「阿仁鉱山一ノ又山全図」の解析・考察を中心とした「秋田阿仁銀山之絵図」(弘前大学附属図書館蔵)の研究
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概要
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「秋田阿仁銀山之絵図」(弘前大学附属図書館蔵)のうち特に「阿仁鉱山一ノ又山全図」(以下『全図』とする)の解析・考察を行い、作成年代、作成の契機を明らかにした。『全図』は、阿仁鉱山のうち一ノ又銅山領内を描いている。絵図には方位と地理的な目印が示され、御台所おだいどころ(鉱山事務所)や蔵、神社・堂、役人および鋪主しきぬし・本番主や労働者の住居がみえる。鳥居の有無で神社・堂が区別され、住居の形態も少しずつ異なるなど建物の形態が精細に描き分けられ、正確に表されている。さらに鋪主や労働者の住居については、「鋪主理助」、「床大工万助」のように職種と名前の両方を記し、どこにどのような職種の者が住んでいたかを明示している。しかし砒通ひどおし(鉱脈の分布状況)は描かれていない。このようなことから『全図』は、秋田藩が山領内の建物や住居の分布状況を詳しく把握するために公的な目的で作成した絵図であると考えた。『全図』の作成年代を特定するため、絵図に書かれている役人の姓名を「小沢銅山次第書」などの文書史料と対比させ、この絵図が文化十二年(一八一五)以降、天保元(一八三〇)‐三年を除く時期の作成であることがわかった。作成年代をさらに絞り込むため『全図』と同様、院内銀山(秋田県湯沢市院内銀山町)内の状況を詳しく描き、建物の名称も記した「院内銀山山内絵図」と比較した。両絵図は同一の目的で作成されたと考えられる。「院内銀山山内絵図」は天保末年‐弘化年間の作成とされており、『全図』も同じ時期の作成と推測される。この期間における二つの絵図の作成を余儀なくされた出来事について検討した結果、これらの絵図は、天保十四年(一八四三)の幕府巡見使による諸国鉱山見分に合わせて、山領内の状況を精細に調査し作成した「岡絵図」、あるいはその下図である可能性が高いということを十分に指摘することができる。