中世後期フィレンツェの寡婦像 : Alessandra Macinghi degli Strozziの事例を中心に
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概要
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1.はじめに 近年の歴史学における家族史・女性史に対する関心の高まりは周知の如くであるが、イタリア中世史研究においてもこの分野に関して数々の研究が試みられ、現代とは異なる当時の状況がいくつか明らかにされた。その中の一つに、中世後期のフィレンツェでは、男性の晩婚と女性の早婚のため妻が早くに夫と死別し、数多くの寡婦が存在したという事実の発見がある。こうした状況下、寡婦になって暮らすということは、当時の女性にとって若年期から意識された身近な問題であり、また女性のライフ・サイクルを考察する際に、重要な意味を持っていると推察される。そこで本論文では、寡婦と家族に関する問題をいくつか選び、寡婦の社会的地位を事例を挙げつつ検討し、当時の女性像を明らかにするための手がかりの一つとしたい。ただし、問題の全般にわたって検討することは困難なので、既存史料の状況に基づき、中層以上の商人家族のケースをとりあげることにする。検証に際しては、1325年のフィレンツェの都市条例や家の覚書そして中心史料としてフィレンツェ商人の寡婦Alessandra Macinghi degli Strozziが残した書簡を用いる。Alessandraは1406年(もしくは7年)にMacinghi家に生まれ、1422年に毛織物商人Matteo Strozziと結婚し、Filippo、Lorenzo、Caterina、Alessandra、Matteo、のほか夭逝した4人の子をもうけた。夫Matteoは1434年のCosimo de′ Mediciのフィレンツェへの帰還の際、反MediciであるAlbizzi派の一員とみなされたMesser Palla Strozziとの親交から追放刑を下され、翌年死亡した。そのためAlessandraは寡婦となった。その後、彼女や娘達はフィレンツェで暮らす。しかし息子達は父の罪に連座して追放刑を課されたためフィレンツェを離れ、父の従兄弟でナポリで銀行業を営むNiccoloやIacopoのもとで働くことになる。こうした状況下、Alessandraが主に息子達に宛てて送ったものが、この書簡であり、史料集として編纂されている。この史料集には1447年から1470年の間に書かれた73通の書簡がほぼ年代順に含まれている。書簡の内容に関しては、書簡の時期全般に亙って、知人の近況やAlessandraの収支の状況の報告等が中心であるが、特に晩年の書簡では、息子達の花嫁選びと彼らの追放刑解除のための運動に関する記述が多くを占めている。この史料からフィレンツェの商人の寡婦の一般像を完全に明示することは不可能である。史料の時期の関係上、彼女が寡婦になった直後の事情を検証することはできない。またAlessandraの抱える特殊性の問題もある。Strozzi家はスペイン、フランス、イングランドにまで広がる大規模な国際金融業を営んでいた一族であり、フィレンツェ商人の中でも一流の家柄である。また息子の追放刑のためAlessandraは男子のいない世帯で暮らしているという彼女に特有の事情があるのである。しかし、それでもなお彼女の中には当時の商人の寡婦一般が抱えていた状況が見られる。当時のStrozzi家は失脚期であり、公的権力は有していない。またAlessandraの亡夫は銀行業ほど利益の上がらない毛織物業者であり、格別顕著な資産家だった訳ではなかった。「男性の不在」という事情に関しても、当時の商人が遠隔地貿易や農場視察等の理由で家を留守にしがちだったという状況に対比してみれば、彼女の特殊性が緩和され、彼女の中に商人の寡婦一般が抱えていた問題を見いだす余地はあるのではないかと思われる。よって今回の論文では、限定された対象としてではあるがAlessandraを寡婦の事例としてとりあげ、彼女の中に見い出せる当時の商人の寡婦の状況について考察したい。
- 1992-10-20