イタリア児童文学と「日曜新聞」の作家たち
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概要
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イタリアに正しい意味での子どものための図書が生れたのは、一七六八年であると言われる。ヴェネツィアから匿名で出版された『(男女貴族青少年の教育に役だつ)面白くて、ためになるお話集』という、きわめて長ったらしい題名をもつ図書がそれである。もつともそれはジュゼッペ・ファンチュルリも言つているように、「この種のものの初めての試み((1))」という程度のものにすぎないようであるが、やがて、こうしたものに刺戟されて、ドン・フランチェスコ・ソアーヴェを送りだした一七七五年のミラノのコンクールがひらかれ、それがまたアレッサンドロ・パッラヴィチーニの『ジャンネット』を生んだ一八三三年のフィレンツェのコンクールへと発展していくのである。『ピノッキオ』が『ある人形のおはなし』として「幼児新聞」の創刊号から連載され始めたのが一八八一年、『クオーレ』が初めて出版されたのが一八八六年であるから、その間に約一世紀の歳月が流れていたことになる。しかし、その一世紀は、イタリアの歴史の上でもおそらく最も大きな意義をもつ一世紀であつたことは、言うまでもない。十八世紀のなかばにわずかに芽ばえたイタリア児童文学の芽が、その一世紀を経過することによつて初めて大きく花開いたのは、注目すべきことである。ところで、こうして『ピノッキオ』『クオーレ』という見事な遺産をひきついだイタリア児童文学が、やがて「日曜新聞」の創刊によつて、更に新しく脱皮し、更に子どもと接近したより(、、)現代的なものへと発展していつたということは案外知られていない。イタリア児童文学の発展過程には、言うまでもなく、実に多くの問題が含まれている。ことに、歴史がリソルジメントを通過する際には、そうである。しかし、イタリア児童文学の歴史が『ピノッキオ』『クオーレ』をもつて終つたのではなく、そこから新しく出発したのである以上、その後に来る「日曜新聞」とそれを拠点に活躍した作家たちを考えることなしにイタリア児童文学を論じることは、たとえ全く無意味ではないにしても、きわめて不完全なものたることを逃れ得ないであろう。
- イタリア学会の論文
- 1958-12-30