フィレンツェ司教座聖堂参事会に見られる聖俗諸権力の関係 : Thesaurarius職(1293-1331年)を通じて
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概要
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フィレンツェでは12世紀頃からコムーネによる自治が行われてきたが、1282年に同業組合の代表から構成されたプリオーリPriori制度が創設され、1293年にマニャーティmagnatiと呼ばれた封建領主や都市貴族たちを市政から排除する「正義の規定Ordinamenti di giustizia」が制定されるなど、後の重要な諸制度の基礎が置かれたのは13世紀末になってからのことであった(1)。その後様々な政治危機に直面しながらも、14世紀にフィレンツェは急速な発展期を迎えることになる。しかし、実質的には自治を行いながらも、グェルフ(教皇派)都市を自認するフィレンツェのコムーネは、その法的な自由libertasを教皇権に依拠していた(2)。このことは、現存最古のフィレンツェ都市条例(1322-25年)の序文において、都市条例が諸聖人及び普遍教会のみならず教皇個人に捧げられていることによって端的に示されている(3)。このような教皇への言及は1415年の都市条例の序文には、もはや見られないものである(4)。14世紀を通じてフィレンツェは、権力の集中と支配領域の拡大を進めることにより、コムーネ都市から領域国家へとその支配体制を変じていくが、それはまた、コムーネ権力が教皇権への法的依存というグェルフ都市の理念から離脱し、いわば主権を獲得していく過程でもあった。つまり、フィレンツェの政体の発展を考える上で、聖俗権力関係は極めて重要な意味を持っているのである(5)。一方教会史において13世紀末から14世紀は、教皇ボニファティウス8世の治世からアヴィニヨン教皇庁時代という制度上の大きな転換期にあたっている。アヴィニヨン教皇庁時代に、教皇を頂点とした権力の統合と組織の整備が著しく進展した反面、地方教会の自立の伝統には大きな制約が加えられた。こうして、地方教会の頭であるとともに市政においても少なからぬ影響力を保持していたフィレンツェ司教座は、互いに集権化を強めつつ対峙するコムーネと教皇の狭間に置かれ、聖俗双方の権力に対応を迫られることとなった。この点から逆に、司教座及び司教区組織を考察することで、フィレンツェにおける聖俗権力関係を検討することができるはずである。以上のような大枠の問題関心に基づきながら、筆者はこれまで司教選出や司教区内の聖職禄を巡る争いを通してフィレンツェの聖俗権力関係に関する若干の考察を行ってきた(6)。引き続いて本稿では、司教座内部に目を向け、司教を補佐し、司教区内で司教に次ぐ地位を占めていた司教座聖堂参事会を取り上げていくことにする。
- 2002-03-30
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