パゾリーニ『カザルサ詩集』の詩語
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概要
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パゾリーニの『カザルサ詩集』がボローニャにおいて自費出版されたのは1942年7月、詩人が二十歳のときである。300部限定、僅々42ページの処女詩集は、他の学友の三冊の詩集と揃って企画されている。この作品が伝記的一要素以上のものとして重要視されるのは、戦後のイタリア詩を代表するパゾリーニがフリウリ方言詩人として出発していることに由来する。フリウリ方言で書いた動機の背景として、彼自身、一種の「レアリズモ」に根ざした姿勢、或いは同地方カザルサ出身の母親と方言との関連について語る。次の1952年の自己分析は処女詩集執筆当時を振り返っている。「彼(=パゾリーニ)は異質な言語と向き合っていた。それは彼自身のものではないが母語lingua maternaであり、また彼自身のものではないが彼が甘美に荒々しく、不純に清らかに愛した人々によって話されていた言語である。」当コメントを読む際にまず注意すべきなのは、これはフリウリを離れローマに移ってから少なくとも一年は経過した時点で書かれた後付けの理屈であるということだ。自らの道筋の再構成はパゾリーニが折に触れ繰り返し行うところのものである。この点を踏まえた上で、「甘美に荒々しく、不純に清らかに愛した人々」という箇所のフリウリの人々への愛情を彩る撞着語法oximoronに注目してみよう。パゾリーニ特有の審美観が窺われるこのレトリックはいわば「神聖さ」と「野蛮さ」を共存させており、1950年代にローマの下層民へ注がれた愛情にも応用されている。即ち初めに観念があり、パゾリーニの場合、方言で書くことにその方言を用いる人々、方言が用いられる現実への接近が図られているとにわかには言えない。方言の使用にいわゆる「レアリズモ」のみが反映しているわけではないのである。また上の自己分析にある「母語lingua materna」が指しているのは、成長の過程で身につけたいわゆる母語でも、字句通りに母の話した言語でもない。それは、実際のところ、母の故郷カザルサの言語という意味にすぎない。そもそもパゾリーニの作品から母性のみを取り出して論じるのは、しばしば行われてはいるが、片手落ちである。母性は父性との相対的な関係にあり、パゾリーニの中で絶対的な位置を占めるものではない。それに教職の資格を持ち比較的教養の高い母親は、下層の人々が話すフリウリ方言を用いることはなかった。ゆえに母親との繋がりは方言選択の決定的な理由にはなりえない。これら二点よりもむしろ、方言は「異質」、「彼自身のものではない」と言及されていることに我々の関心は向けられるべきである。フリウリ方言で詩を書き始める以前、パゾリーニはその言語に通じてはいなかった。6歳の一年間と毎年の夏季休憩を除き、常にフリウリの外で生活していたためである。詩人はボローニャに生まれ、職業軍人であった父の転勤に伴い幼少期に北イタリアを転々とした。高校に進学しボローニャに落ち着いた後、同地で文学的教養を育む。経験に即さずにある言語(方言)を詩語として選び取ること、アプリオリでない言語の使用は非常に稀な文学的事象である。その言語選択の動機は、パゾリーニの詩語観を基に再考せられるべきである。本稿は『カザルサ詩集』の詩語分析を通して彼の詩語観と方言選択の動機の解明を試みるものである。
- 2000-10-20
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