ジョヴァンニ・ボッカッチョ作『フィアンメッタの哀歌』における運命の女神
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概要
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ボッカッチョ作『フィアンメッタの哀歌Elegia di madonna Fiammetta』(以下『哀歌』)において、主人公フィアンメッタは運命の女神Fortuna(以下「運命」)に翻弄され続ける自身の恋愛体験を語っている。主人公は女神を敵対的で、変わりやすく、盲目であり、嫉妬深く、人間の祈りにまるで聞く耳を持たない存在として性格づけ、むなしく糾弾する。しかし、この告白体小説において次から次へと主人公に苦悩の種を生み出すとされる「運命」は、ほぼ一貫して彼女の非難や嘆きの対象であり続けるだけではない。作品を俯瞰すれば明らかなように、この女神への言及は小説のプロットの節目になっていると言いうる。もっとも、「運命」に繰り返し言及すること自体は『哀歌』にのみ特有な現象ではない。「敵対的で、変わりやすく、盲目であり、嫉妬深い」ことは、ラテン作家以来連綿と受け継がれてきた「運命」の特徴でもある。また、恋する登場人物が「運命」を詰り、自身の不幸な恋愛を嘆く場面は、たとえば『フィローストラトFilostrato』や『テゼーイダTeseida』などにも認められる。気紛れな女神は、ペトラルカの『俗事詩片Rerum vulgarium fragmenta』においても随所で呼びかけられ、詩人自身に語りかけることさえある。ウェルギリウスは地獄において、地上における「運命」の性質や働きをダンテに教えている(Inf. VII 61-96)。周知のとおり、ボッカッチョ自身も、『愛の幻影Amorosa Visione』において、『神曲』地獄篇のこの一節を踏まえて長大な運命論を展開している(XXXI-XXXVI)。これは、古典文学に端を発し、中世ヨーロッパ文学を通じて守られた一つの文学的常套と言ってよいだろう。もちろん『哀歌』における「運命」への言及や呼びかけもまた、このような常套的手法に従った結果である、と言ってしまえばそれまでである。「運命」について、近年Bardiは、やはりこの女神から受ける試練を問題にしているボエーティウス『哲学の慰めConsolatio Philosophiae』やアッリーゴ・ダ・セッティメッロArrigo da Settimello『哀歌Elegia』(12世紀末に成立)とボッカッチョ『哀歌』とを比較している。彼女によれば、ボッカッチョの『哀歌』における「運命」にはこうした哲学的著作におけるそれとトポスの上での類似性はたしかに認められるものの、ボッカッチョ作品にはボエーティウスに見出されるような「愛」の自然学的・宇宙論的なテーマが欠けている。さらに、アッリーゴ作『哀歌』とのトポス上の類似性は、むしろアッリーゴとボッカッチョがともに下敷きにした文学的伝統に由来すると言う。ボエーティウスやアッリーゴの作品に登場し著者を諭すような「哲学」は、ボッカッチョの小説には登場しない。基本的にボッカッチョ『哀歌』と『フィローストラト』及び『テゼーイダ』の序文とは、「運命」の描かれ方において違いはなく、『哀歌』中の「運命」に対するよびかけはトポスに従っているに過ぎないと論じている。Bardiのトポス分析は有益な比較例に富むものの、語り手=主人公という語りの構造及び文脈を考慮に入れず、局部的な比較に終わっているという弱点を持つ。本考察の目的は、このような語りの構造の特性に着眼しつつ、同じように一人称の主人公が「運命」に苦しめられた経験を語っていたり、「運命」が恋人を翻弄するような設定を持っていたり、あるいはまとまった長さの運命論を含む先行作品と適宜比較することにより、『哀歌』における「運命」のトポスの扱われ方を特徴づけることである。そしてその上で、『哀歌』という小説を成り立たせる古典的レトリックの駆使や諸トポスの多用、神話への頻繁な言及にボッカッチョが託した創作目的を考える上での手掛かりを提供したい。
- 2000-10-20