アカデミア・フィオレンティーナ 1542-1553 : 君主国フィレンツェにおけるアカデミアの機能と役割
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
はじめに フィレンツェ公国は、1532年に誕生した新しい君主国である。君主国の誕生によって、1492年のロレンツォ・デ・メディチの死以来続いていたメディチ家と共和制支持者の間の争いは終わり、皇帝カール5世の陣営に組み込まれたフィレンツェ公国は、以後1737年までメディチ家の支配下に置かれることになった^<(1)>。共和制時代から既に、メディチ家はフィレンツェを事実上支配していた。しかしそれはあくまで共和制という枠組みの中においてであり、そのために15世紀末から16世紀の初頭にかけてメディチ家が追放されるということも起こりえたのである。実際は都市貴族層による募頭制であったにしても、フィレンツェの共和制の伝統は根強いものであった。フィレンツェ公国の初代公爵になったアレッサンドロは、暴君として多くの貴族達の反感を買い、即位してわずか5年後の1537年に暗殺された。君主国としての国家の整備は、アレッサンドロの後を継いだコジモ1世(1519-1574、在位1537-1564)に任されることになった。彼の即位当初のフィレンツェは、フランスと結んだフィレンツェ人共和制支持者達の脅威にさらされる一方で、カール5世がフィレンツェを属国としてしまう危険性にもさらされていた。しかしコジモはこの危機を乗り切り、長い共和制の歴史を持つフィレンツェを絶対主義的な君主国に変えることに成功した。ここで「絶対主義的」という言葉を使うことには、問題があるかもしれない。フィレンツェ公国は、領域国家としての一体性を達成しておらず、多くの周辺都市が独自の伝統を守っていた。また徴税や司法の全国的システムは整備されていなかったし^<(2)>、常備軍の整備も遅れていた^<(3)>。しかしともかくコジモは官僚制の整備を通じて、君主の権力を強化することにかなりの成功を収めた。この権力の強化は、1540年代初めから1550年代初めにかけて行われている^<(4)>。そしてこの同じ時期、コジモは文化政策にも非常に力を入れていた。この文化政策は、新しい君主であるコジモが、君主としての地位を確立し、国内外に彼の威信を示すために必要なものであり、彼はフィレンツェを離れていた知識人や芸術家を呼び戻し、大学を復興し、印刷所も設立した^<(5)>。そして、本論の課題であるアカデミア・フィオレンティーナも、まさにこの時期に設立され、コジモの文化政策の中心の一つとなっていたのである。本論の目的は、このアカデミア・フィオレンティーナが、君主国の形成期でもある1542年から1553年という期間にどのような機能や役割を果たしていたかを、アカデミアの記録や規約といった史料から明らかにすることである^<(6)>。この期間の設定の理由は、2つある。ひとつは、この時期にアカデミアでは多くの改革が行われているからであり、もう一つは、1552年からフィレンツェ公国は隣国シエナとの戦争に入り、戦争が進展するにつれて、文化的活動が停滞してしまうからである。シエナ戦争はフィレンツェがシエナを征服することによって1559年に終わるが、それ以後のフィレンツェ文化は、政治的環境の変化や知識人達の世代交代によって、それ以前の文化とは様相を変えてしまっているのである。アカデミア・フィオレンティーナについては多くの研究者が言及しているが、これらの研究では、アカデミアが誕生する過程やその直後の1540年代前半に注目が集まっており、それ以後のアカデミアの改革についての研究は、わずか2点にすぎない^<(7)>。そしてこの2つの研究も、絶対君主による知識人の抑圧やコントロールという視点からの研究であるため、君主国においてアカデミアが果たした役割について積極的に考察しようという姿勢に欠けているように思われる。従って本論では、アカデミアの機能や役割をより広い視野の中で考察し直すつもりである。
- イタリア学会の論文
- 1998-10-20