ヴェネツィア・ビエンナーレにおける装飾美術 : 1897年第2回展への日本美術参加の意義
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
1.問題点の所在 ヴェネツィア・ビエンナーレ(Esposizione Internazionale d'Arte della citta di Venezio)は、絵画・彫刻・エッチング・素描のみを出品対象として1895年に誕生した。当時の美術学校における純正美術・装飾美術峻別の傾向をそのまま引き継いだビエンナーレは、1899年の第3回展において、まず装飾美術のために一部屋を設ける。次いで1903年には純正美術と装飾美術を一つの部屋に混在させて、「賢明な愛好家が展示した小さなギャラリーのように見せ」、新しい美術の在り方を探り始めた。初めにイタリア諸州の展示室に試行されたこの方向転換は、1905年には外国展示室にも適用される。これは純正美術を展示すべきビエンナーレにとっては、その本旨を放棄するにも等しいドラスティックな変化であったといってよい。これまで、この変化、特に1903年のそれはアート・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォー、ユーゲント・シュティールなどヨーロッパ全体に広まっていた新しい美術を目指す大きな流れを背景に、1902年トリノで開催された国際装飾美術博覧会(Esposizione Internazionale d'Arte Decorativa)を契機として語られてきた。すなわち、トリノの展覧会で注目された装飾美術を有機的に純正美術と結合する新しい動きと捉えられてきたのである。しかしながらこの従来の見方には、1897年の第2回ビエンナーレで実現した日本美術の参加の意味が全く問われていないという憾みがある。第2回展示会には、ビエンナーレ企画委員会が既に出品依頼していたベルリンの美術愛好家エルンスト・ゼーゲアの、根付を中心としたコレクションに加えて、1896年に日本美術協会が同時代美術の出品を決定した。また、七年間にわたって日本駐箚イタリア公使を務めたアレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵の掛物や巻物のコレクションも急遽展示された。本稿は、新しく発見された未刊行の書簡をもとに、ビエンナーレにおける装飾美術の扱いを、この日本美術参加との関係から、別のコンテクストの中で捉えようとする試みである。
- 1997-10-20
論文 | ランダム
- KOTONOHA『現代日本語書き言葉均衡コーパス』の開発(資料研究の現在)
- 日本語コーパス開発の現状と展望 ([英語コーパス学会]第30回記念大会シンポジウム)
- 『日本語話し言葉コーパス』の設計と実装 (話し言葉の日本語) -- (日本語話し言葉コーパス)
- 話し言葉と書き言葉 (話し言葉の日本語)
- 多角的法律関係の研究(23)「多角的法律関係」規律のための法理形成試論