ルイジ・マレルバにおける<言葉と現実> : 固有名の問題を中心に
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概要
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マレルバは言葉そのものに対するこだわりが非常に強い作家である。それは、言葉の吟味とかいうことではなく、実質としての言葉にこだわるということであり、いいかえれば、言葉と、言葉によってあらわされるところの現実との切断を明らかにするということである。マレルバについて、これまで論じられてきたことの多くの重要な点は、次の二つのことに要約できよう。(1)従来の物語の型の踏襲と脱構築。(2)言語の不能性、あるいは、事物や事象の言語への還元不可能性。(1)については、たとえば、フランチェスコ・ムッツィオーリは、Il serpenteにおいてマレルバは、19世紀風の物語の典型をその内部から根本的に空洞化し、しかも、小説そのものの発信源=語り手の信憑性を傷つけるに至ったといっている。また、パオロ・マウリは、マレルバの初期三部作と言えるIl serpente, Salto mortale, Il protagonistaにおいて、「犯罪小説」と「恋愛小説」という典型的な物語のからくりが解体される際、からくりの諸要素がその解体作業そのものにおいて再分配・再使用される、ということを言っている。ジョアン・キャノンもまた、Il serpenteについて、アットランダムに拾い読みする読者は伝統的な物語の構造があるという(誤った)印象を受けるかもしれないというアンジェロ・グリエルミの言を引きつつ、その気になれば、Il serpenteの"破片"から伝統的で直線的な物語の筋を救出することができると言っている。これらの指摘はたしかに、マレルバの諸作品を論じる際、重要な点ではあるに違いない。しかし、物語のからくりとしてはおもしろいかもしれないが、それ以上のものではない。とはいえ、ヌーヴォーロマンにおけるプロットの解体について、アラン・ロブグリエがベケットを例にとり、《出来事には事欠かないが、それらはたえず自らに異議をとなえ、自らを危険にさらし、破壊している》と言っているが、それは、マレルバの手法にも非常によくあてはまることを指摘しておこう。さらに付け加えるならば、マリア・コルティが、マレルバ(ならびにパオロ・ヴォルポーニ、カルロ・ヴィッラ)について、伝統的な物語の形式をのりこえるために、妄想狂の視点を導入していると言っているのだが、その際、<妄想狂の視点から現実が歪められて描かれているが、それは、そのような現実の異化によって、この世の真実がかいま見られるという作家の意識的な手法である>と言っている。しかし、そのような言い方では不十分であり、むしろ、そうして歪められる以前の「現実」こそが、じつは虚構であるということを示す手法だというべきである。その歪みは、その虚構に慣れ切った意識が妄想狂を前にして見い出す歪みなのである。そのとき、妄想狂の視点はこの世の真実を見ているかというと、そうだとも言えまい。それもまた別の虚構にすぎないのである。真実があるとすれば、われわれは各々の虚構の中にしか生きられないという、超越論的なものでしかありえない。マレルバがその内部から解体しようとする文学的伝統とは、いわば、この虚構に慣れ切った意識なのだと言ってもよいだろう。しかし肝心なのは、(2)についてである。ロマーノ・ルペリーニは、《マレルバの世界は言葉の世界であるが、その言葉は、コミュニケートすることができず、現実を支配できない。言語はたしかに最高の主人公なのだが、なによりもまず自らの不能性を証す重要参考人なのである》と言っている。マウリもまた、マレルバの作品において、言語こそが究極の主人公たりうるとしても、たんなる言葉の組織体としての言語が問題になっているのではなくて、おそらくは、言語が告発れているということ、つまり、包括的なコミュニケーションの手段としての明らかな不能性が問題なのであると言っている。マレルバは「私=語り手」を主人公とすることが多いのだが、そこには外部とのつながりが断ち切られた内面世界が展開している。ただし、ここでいう内面とは、近代的な自我が見出すような、紆余曲折する自意識ではなく、行き当たりばったりで一貫性がなく、日常的な、無意識といってもいいような意識であり、そのようであるがゆえに、マレルバの描く世界は夢の世界に酷似する。この閉ざされた夢のような意識は、外部とのコミュニケーションがそもそも成立することの驚異に異常に敏感であるがゆえに自閉するという意味でナイーブなのであって、外部とのコミュニケーションが本来は(あるいはがさつな者には)可能であるはずだが自己のナイーブさのためにそれが妨げられているなどというのんきな自意識とは、厳格に区別されねばならない。そのような内面において、外部を遮断したところに成立する描写や説明等の記述は、外部すなわち他者に向けて語られるべき事柄になるやいなや、その自在さを失う。その際、言語の本来的不能性、すなわち、言語は決して現実をそのまま代
- 1996-10-20