ガリレオの文体に対する評価の変遷 : 「明晰性」を中心に
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概要
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フランチェスコ・フローラ(1881-1962)は主著『イタリア文学史』(1940)の「16世紀」第2部の第7章をガリレオ・ガリレイ(1564-1642)にあてているが、前半でその哲学について考察し、後半では文体をテーマに論じている。フローラは彼の文体について多くの例を挙げながら細かく検討した後、「ガリレオの科学的題材は、その神秘のなかでは、また絶え間ない創造のまさに心臓部では、宇宙の叙事詩・劇・叙情詩なのである」として、最後を次のように締めくくっている。そこでは、事物とことばが、空間・時間・空隙・深淵・天球・エーテル・風・火・満潮そして干潮が、運動と力が、震動と振動が、空気の重さが、光と影とパースペクティヴが、星々と鏡と金属の光が、月の山々・クラゲ状の透明な星が、食が、「地球の影のなかに浸った月」が、色・音・匂い・味・感触が、液体が、磁石が、天空・水・物体の運動が、凹凸のある粗い地上あるいは滑らかな海上における大気の運動が、諸感覚と知性を武装してくれる機械が、円・三角形・線で事物に刻まれた幾何学、劇的なオブジェとなった数が形成されているのである。このような科学的題材が神聖な詩として愛されているのである。そして天文学は宇宙の肉体的表現であるイメージやリズムを丹念に発見するものとなっているのである。諸世界が合唱するなかでの太陽・月・その他の諸惑星の儀式、潮流と風・音と色と温度の典礼は、彼が学ぶ神聖な詩節である。したがって、彼の語り口には、驚きの調子があり、ときには世界の創造に立ち会う者の心のうちの喜びで輝いている調子がある。そしてここに非常に具体的でもあり非常に寓話的でもあるガリレオ・ガリレイの崇高な文体の秘密があるのである。「科学」も表現されるときには当然のことながら言語を媒介とする。したがって、純粋に数学的記号のみを使用して記述する場合でもない限り、科学的事象を扱ったエクリチュールは「文学」的に解釈される可能性を有していると言えよう。しかしこのフローラの評価は、まさにその極端な例なのではなかろうか。ガリレオはあくまでも具体的に「科学的」題材について記述しただけであって、そこに描かれている「事物」を「詩的」なものとして捉えるのは読み手の勝手な解釈と考えたほうが常識的な判断ではなかろうか。さらに『偽金鑑識官』のなかでガリレオは「哲学は私たちの眼の前に始終広がっているこの非常に大きな書物(私は宇宙のことを言っている)のなかに書き込まれている。しかしまず言語を理解し、宇宙が書かれる際に使われている文字を知るように学習しなければ、これは理解できない。これは数学的言語で書かれており、文字は三角形・円・その他の幾何学的図形である。これらの手段がなければ人間には一語も理解することができないし、これらがなければ虚しく暗い迷宮を迷い歩くだけなのだ」と述べているのだ。彼が世界を解読して記述するのも当然「数学的言語」によることになる。ゆえにこの「数学的言語」を基礎にして自然的事物について具体的に記述された彼のエクリチュールから、ここまで「詩的」な要素を引き出そうとするのは行き過ぎと言えないだろうか。「科学」的な著作を文学的に検討する際に気を付けなければならないのは、その著作が扱っている「内容」である「事物」を対象とするのではなく、その著作の「表現」を対象とすべきなのである。フローラの結論部には「表現」と「内容」との混同がありそうだ。ところで、それぞれの民族の「文学史」を記述する際には、科学者や自然科学の領域の著作を重要な対象として扱うのが一般的なことだなどとは決して言えないだろう。例を挙げれば、「イギリス文学史」のなかでニュートンやダーウィンや彼らの著作が、思想的にあるいは題材として他の文学者や文学作品に影響を与えたものとして扱われることがあったとしても、それらの科学的著作そのものが文化作品として論じられるなどということは普通は考えられないことであろう。ところが、「イタリア文学史」におけるガリレオ(とガリレオ派の科学者たち)の存在は別なのである。フローラで見たように、一章か少なくとも一節のスペースが与えられて、彼の哲学的・科学的業績と彼の散文の両方について論じられるのが通例なのである。本論ではなぜガリレオが科学者であるにもかかわらず「イタリア文学史」のなかで重要視されるようになったかを、その評価の変遷を特に「明晰性」を中心とした文体の問題を軸に今世紀初頭までたどりながら考察することを目的とする。
- 1995-10-20