ボッティチェルリの《東方三博士の礼拝》の安置場所の問題再考
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概要
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画中にメディチ家の一族が描き込まれていることで有名な、ボッティチェルリの手になる《東方三博士の礼拝》(No.1890-882)(図1)は、現在ウフィツィ美術館に所蔵される。本板絵は、フィレンツェの金融業者sensale de' cambiのグァスパルレ・ディ・ツァノビ・ダル・ラーマGuasparre di Zanobi dal Lamaが、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェルラ聖堂(図2)内の新たに建てた自分の礼拝堂に安置する目的で、1474年頃ボッティチェルリに委嘱して描かせた祭壇画である。本祭壇画に、上記のように、メディチ家の一族が描き込まれていることから、グァスパルレのメディチ家に対する何らかの意味が込められているものと推定される。ヴァザーリはボッティチェルリの伝記の中で、本祭壇画について、最もスペースを割き、賛辞を以って記述している。画家ボッティチェルリは、メディチ一族の関係者の多くの肖像を含むこの作品によって名声を得、システィーナ礼拝堂の壁画装飾を、当時のフィレンツェの著名な画家たちともに、シクストゥス4世から委嘱されることになった、いわば画家にとっての出世作でもある作品である。こうした重要な作品にもかかわらず、本祭壇画に関しては、制作年代、安置場所の問題、画中に描かれているメディチ一族の人々およびその関係者たちの肖像の同定、委嘱主グァスパゥレとメディチ家との関係、あるいは、何故本祭壇画が描かれたのか、グァスパルレがメディチ家に接近するためだったのか、等々、未だ充分に解明されていない問題が多い。筆者は本妻団に関する、こうした諸問題を1985年以来研究し続け、注(4)で示したように、主として画中のメディチ一族およびその関係者の肖像の問題を、邦文およびイタリア語文にて発表してきた。本論文は、それらに続くもので、グァスパルレ・ディ・ツァノビ・ダル・ラーマなる人物の全体像の理解やボッティチェルリの本祭壇画制作にまつわる空白部分を埋めることにも繋がる、本祭壇画の安置場所の諸問題について、論考するものである。本祭壇の安置場所については、ヴァザーリの記述によると、サンタ・マリア・ノヴェルラ聖堂中央扉口を入って左手の内壁ということになるが(図3)、一方、サンタ・マリア・ノヴェルラ聖堂に残っていた『セポルクラリオ』Sepolcrario della chiesa di Santa Maria Novella di Firenzeによると、同聖堂の中央扉口を入った右手の内壁ということになる(図4)。はじめてボッティチェルリに関する詳細な研究を試みたヘルマン・ウルマン博士は、1894年にヴァザーリの記述を受け容れた。ところが、H.P.ホーンは1908年に資料に基づくボッティチェルリの大著作を発表し、ヴァザーリの記述を誤りとした。爾来、ヴァザーリ説は斥けられ、ホーン説が定説化することになった。筆者のボッティチェルリ研究の第IV号に当たる本論文は、この祭壇画安置場の問題について、原点にたちかえり、知られうる全ての現存資料、これまでの研究史の再考、および絵画の意味内容の美術史学的解釈などに基づき、両説の正誤性を検証するものである。
- 1991-10-20