イタリアに於ける「十字架上のペリカン」図像の普及
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概要
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「十字架上のペリカン」図像とは、『磔刑図』、『十字架像』、そして聖ボナヴェントゥラの著作"Lignum Vitae"「生命の木」を図解した絵画等に於いて、キリストが磔に処されている十字架の上で、一羽の親ペリカンが自分の胸を嘴で傷つけ、そこから迸り出る血を雛たちに与えている姿が表されているものを指す。このペリカンは周知の通り十字架上で人類救済のために自らの血を流したキリストの象徴である。このペリカンの図像は十字架の上という場所から離れて単独で、或いはキリストの「受難」を象徴する他の図像や、「予型論」を表す象徴と共に描かれることもある。ペリカンは他に母性愛、父性愛、慈愛、「復活」の象徴でもある。ペリカンがこれ等の象徴となったのは、ペリカンの習性に起因する伝説が源泉となって様々に解釈されていったからである。十字架の上にペリカンを描いた『磔刑図』、『十字架像』はイタリアでは14世紀頃から数多く制作された。ここで言う『十字架像』とは、十字架形の板に磔に処されているキリスト像を描いたものを指す。この『十字架像』はイタリアでのみ制作されたか、少なくとも現存するもの全てがイタリアで製作されたものといわれている。その現存する最古の作品は、サルザーナの大聖堂にあるグリエルモの署名と1138年の年記のあるものだが、イタリアで数多く制作されたこの『十字架像』にペリカンが描かれる様になるのは、筆者が知る限りでは14世紀頃になってからの様である。また『磔刑図』に於いてもイタリアに関しては同様である。実際、多くの図像学辞典のペリカンの項目の記述は、十字架上のペリカンの図像を「14世紀のイタリア絵画にはしばしば描かれる」とか、「キリスト教図像事典」では「中世では『磔刑図』のキリストの上に置かれ、とくに13-15世紀の板絵に広く普及する」とあり、Enciclopedia Dantescaはジョッテスキの画家たちが描いていることに言及し、Enciclopedia Cattolicaには「フィレンツェのサン・フェリチェ聖堂の『十字架像』を描いた画家の様な……、ジョットの弟子たちがこの図像を最初に使った。」とある。このサン・フェリチェ聖堂の『十字架像』の作者の帰属は未だにジョットの真作、ジョット派の作品と分かれている。かつて派に帰属したR・ヴァン・マールはこのペリカンをジョッテスキのディテールとし、それは聖ボナヴェントゥラの著作「生命の木」を図解したパチーノ・ディ・ボナグイダによって繰り返されるとしている。またイタリアの『十字架像』に就いての基本文献を著したE・サンドバーグ=ヴァーヴァラはやはりこの『十字架像』をジョット派に帰し、ペリカンの図像を恐らく東方からもたらされたとしながらも、十字架上のペリカンをtrecentoの『十字架像』の画家たちが採用したとしている。そしてこのサン・フェリチェ聖堂の『十字架像』に言及する最近の文献も、このペリカンの図像に言及しており、この図像がこの『十字架像』に於いて重要な要素であることが察知される。前述の様に十字架に磔に処されたキリストの象徴であるペリカンの図像が、イタリアで14世紀頃に急速に普及することはしばしば言及されており、「それは托鉢修道会の布教に影響を受けたものである」とか, 或いは前述した様にジョッテスキが初めて用いたモチーフであるとか言われ、中世に於けるその普及は"Physiologus"「フィシオログス」、"Bestiario"「動物誌」の影響であると言われる。しかしこう言った説明は漠然としており、14世紀の著しい普及に関して明快な解答を与えておらず、納得の行くものとは言い難い。本論ではこの「十字架上のペリカン」図像が、14世紀イタリアで何故多く描かれる様になったのか検討することを目的としている。
- 1990-10-20