ガリレオにみられる17世紀前半のイタリアにおける科学者の地位
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
16・17世紀は科学史上革命の世紀とされている。この科学革命を特徴付けているのは旧来の学問の枠組みを越えた自然に対する新たな探求の態度であるが、E.ライモンディはこれを「≪注釈≫の文明」から「≪批判≫の文明」への「知的パラダイムの変化」と表現している。この革命は第一に科学知識の内容の大きな転換と拡大として現れたが、同時にまたその担い手である研究者の社会的地位の大きな変化をも伴っていた。アリストテレスの『自然学』を講じる哲学者に代わって、彼等とは異なる関心と方法をもって自然の探求を行う人々が現れてきたのである。彼等の活躍の場もそれまでのスコラ哲学者とは異なったところに見出だされた。ガリレオの新科学の「新」科学たる所以は、自然現象への数学の適用と実験の活用という点にあるが、これらは大学の主流を占めていたアリストテレス派の哲学者の守備範囲を越えるものであった。換言すれば、新科学には大学の伝統的な学問的枠組みの中に占めるべき位置がなかったのである。ガリレオは大学の数学教授としてスタートするが、後にトスカーナ宮廷に移るときには「数学者」と「哲学者」のふたつの肩書きを同時に要求している。そこには一方の肩書きだけでは覆いきれない領域を対象にしている、という自覚があった筈である。旧来の学問分類が新たに生れつつあった科学に対応出来なくなっているのである。ところで17世紀のイタリアでは≪scienziato》は≪letterato》というほどの意味で、決して今日の科学者ではなかった。もちろん科学という学問領域が確立されていたわけでもない。そうした時代に、今日であれば「科学者」と呼ばれたであろう人々が得ていた地位は、主に大学教授(数学、医学、外科学、解剖学、植物・薬草学など)、宮廷学者、技術者(軍事技術者、土木技術者など)であった。経済的に恵まれた少数の者は別として、当然科学者も生計を立てるためには何らかの職業に就く必要があったことは言うまでもない。後に新科学の担い手と称される人々も、これらのポストの中に自らの占める位置を求めることから始めなければならなかったのである。その意味で、数学ないし数学的科学の研究を職業としようとする者にどのような可能性があったのか、彼等の置かれていた状況を理解することがこの時代の科学の背景を理解するために非常に重要である。そのためにここではガリレオのキャリアを中心に当時の科学者、特に数学者の社会的な地位について考察する。ガリレオを取上げるのは彼が当時のイタリアを代表する科学者であったことはもちろん、大学教授と宮廷学者というふたつの典型的な地位をともに経験しているうえに、「ガリレオ学派」の形成にトスカーナの宮廷やピサ大学のポストが果たした役割を評価することが、この時代のイタリア科学の理解に不可欠であるという理由からである。科学者のためのポストとして大学教授や宮廷学者を考察するためにここでは次のような視点からこれらを取上げる。これらのポストが社会的にどのような評価、位置付けを受けていたか。また数学教授等のポストは大学内で相対的にどのような位置にあったのか。この問題は科学者の社会的な地位を知る上で重要であることはもちろん、社会的な評価が将来有望な人材をひきつける大きな要素であることを考えれば、科学そのものの発展とも無縁ではない。これらのポストを得るためにどのような方法があり、どのような条件で選ばれたのか。誰に、あるいはいかなる機関に人選や任命の権限が属していたか。これは学位のような資格制度も含めて、専門家の養成の問題とも関わっている。報酬等の待遇はどうであったか。地位の安定性、継続性、将来性はどうか。契約期限やその更新、昇給の可能性なども考察の対象とされる。その地位に義務付けられた、あるいは期待された役割はどのようなものであったか。そして実際の研究、教育等の活動はどうであったか。科学者本来の研究とそれ以外に要求された仕事とのバランスの問題、また弟子の育成などに関わる教育の側面等もその射程に含む。
- イタリア学会の論文
- 1989-10-20