『画家のRicordanze考 : Neri di Bicciの場合』
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概要
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1452年3月10日。全能なる神および栄光に満てる御母聖処女マリアおよび天界なる諸々の天使の御名において。この記録簿はフィレンツェ市のサン・フリアーノ、すなわち竜旗のもとなるサント・スピリト地区の教区民である絵師ネーリ・ディ・ビッチ・ディ・ロレンツォ・ピッチの記すところである。この記録簿を『リコルダンツェ』と題し、Dの記号を付す。ここには(欠落部分あり)私の仕事すべてについて記録を留め、注文主や価格や仕様について書き残しておく所存である。またすべてのものの購入販売について、そのほか記録に値するすべてを書き留めるつもりである。上記の一文は、15世紀のフィレンツェの画家Neri di Bicci(Firenze1419-91)が、約20年間にわたって綴ったかれの営む工房にかんする一種の「営業記録」ないしは「工房日誌」といえるRicordanzeを始めるにあたって、その意図を明確に表明したものである。Ricordanzeの執筆者であるNeri di Bicciの画家としての評価は、極度に低いと言わざるをえない。諸々の美術史の書物あるいは事典類をひもといてみても、名前すら挙がっていない場合が少なくなく、何らかの記述がなされている場合でさえ、せいぜい数行で片付けられている有様である。唯一の例外は、ヴァン・マルル(Van Marle)がイタリア絵画の発展の歴史を論じた著作の中で、Neri di Bicciに一章を設けて20頁以上の紙数を割いているケースと思われる。ただし、そのヴァン・マルルすら「ネーリ・ディ・ビッチは凡庸で同時にまさしく多作な画家である」との定義付けを以て、論述を始めているほどである。しかも、「凡庸」とか「多作」といった少なくともあまり芳しくない画家Neri di Bicciのキー・ワードとも称しうるものは、前世紀末、はじめて本格的にNeri di BicciのRicordanzeを取り上げたミラネージ(Milanesi)に遡り、「三流か四流」のような表現の差異こそあるにしてもNeri di Bicci自身やかれの経営する工房に冠せられるこの種の言い回しは枚挙にいとまなしで、今日に至るまでいささかもその域を脱していない。一方Neri di Bicciの画風は、「長年にわたる活動全体を通じて(フラ)アンジェリコや(フィリッポ)リッピに閑心を抱きながらも、父親の工房を支配していたゴシック趣向との緊密な結びつき」〔( )内訳者〕をうかがわせる以外の何ものでもなく、たとえばその作例の一つである若き日に父親Bicci di Lorenzo(Firenze1373-Arezzo1452)を助けて制作に携わり、おそらく1445年頃着手したが、父親の死去によりPierodella Francescaに受け継がれるところとなったArezzoのSan Francesco聖堂内陣の装飾フレスコ壁画をはじめ、壮年期の『十字架礁磔』を描いた祭壇画(Fiesole, San Francesco聖堂)によっても裏付けられる。その活動期が1400年代の中葉からほとんど後半全体を通じてであるという時代を思うとき、15世紀にフィレンツェの舞台に登場した画家たちのまさに百花繚乱とした活躍は言うまでもなく、盛期ルネッサンスの三大巨匠もすでにデビューしていたのであれば、まったく時代遅れの感を免れえないことは明白であろう。そこでSantiの言葉を借りれば、「ネーリ・ディ・ビッチが美術史上において、特筆すべき地位を占める権利を有するのであれば、数が多いとはいえ、疑いもなく取るに足らない作品が現存していることよりも、その『リコルダンツェ』が保存されていることに負うところはるかに大である」とされるRicordanzeとは、一体どのようなものであったのか、以下で述べることにしたい。
- 1989-10-20