13、4世紀イタリア絵画の中の東洋文字 : ジョットを中心に
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概要
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ペブスナーはヨーロッパの建築史を述べるあたって《ピサは概して-トスカナ風というよりは東洋風の-異国的性格のために人の心を打つ。同様にヴェネツィアの様式はビザンチン様式と、またシチリアの様式はアラブ様式と、それぞれ関連していて異国的なのである。》これだけ述べてその東洋風の意味を述べていない。つまりはしがきでいうように《ヨーロッパ建築の発展において周辺的な意味しかもたないものや、その性格がヨーロッパ的でないもの、つまり西ヨーロッパ的でないものはこの本から除外されよう》といっており、こうした「東洋風」のものは「ヨーロッパ建築」から周到に排除するのである。確かにペブスナーがギリシア建築について述べないことは、西ヨーロッパの建築史について語るときの一つの卓見である。根本的に形態の原則が異なると考えられうるからである。しかしイタリアの中にあるピサやヴェネツィアの建築について述べないのは果たして正当といえるであろうか。西洋美術史家のほとんどが避けて通っていた問題はこのような「東洋」からの影響がある。とくに13、4世紀に「東洋」との関係によって富をえたヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサはどの諸港をもってイタリアにとっては、単に商業上の影響だけでなく、宗教上、もしくは文化上でも相当な影響があったと考えられるが、ペブスナーのようにその問題を避けているためにその解明は充分に進んでいない。とくに「様式」の問題はそれが模倣されたとしても微妙に変化しているためにすぐに「影響」として片づけられない。私はイタリアの13、4世紀の画家たちが絵画の革新を行なったことに東洋からの影響もあると考えるものであるが、例えばその空間についても、人物表現についても、二次元性から俯瞰的な三次元性に変ったり、人物の動きが自由となり、顔も一重眼瞼の東洋人的になったりしていても、直接影響を与えた絵画作品や資料が残されていないからという理由で閑却に付されてしまうことが多い。そこで私はこの時代の東洋文字模様に限って検討することにした。少くともそれがラテン文字やヘブライ文字と異なることが明確であれば、当時の画家たちがはっきりと東洋文化に関心を抱いていたことを証明するもので、意図的に破壊や消滅され易い文書や記録を追うよりもかえって歴然としているからである。このことにより排他的であるはずのキリスト教が、教会文書で考えられるよりはるかに異教に関心を払っていたことが予想されるのである。文字というものは「知識」をあらわし、それ自体尊敬されるべきものである。この東洋文字模様が示されるのが、しばしば聖者の書物の中であったり、預言者の巻物の中であったり、司祭の服の縁取りであったりするのはまさにそうした尊敬があったことを示すものである。このことはキリスト教の寛大さを示す重要な証拠でさえあれ、決して軽視されるべきものではない。そのことはまたエデンの園に示される楽園の存在する東方への憧れ、プレスター・ジョンに象徴される東方のキリスト教徒の存在への期待がこめられているものであっただろう。1845年すでにアドリアン・ドゥ・ロンペリエがキリスト教美術におけるアラビア文字の存在を指摘し、クーラジョーも「ゴシック美術の起源」でそのことを取り上げている。しかしこの問題をもっともよく検討したのはG・スーリエであろう。スーリエはクーフィー文字の名で呼ばれる文字模様を二つにクーフィー体とナスヒ体(図1)に分けている。クーフィー体の方は記念碑などの銘文にもちいられ、ナスヒ体の方は横線の曲線が多く写本に用いられる。ただクーフィー体でも、四角ばったタイプ(図2)と、より縦線の曲線の模様の多いタイプがある。イタリアではまずイスラム教徒自身によってもたらされたものと、その影響を受けた例がある。例えば1111年後のカノザに建てられたボヘモンドの墓廟のブロンズの門にはロジェ・ダマルフィのサインのある偽アラブ文字があり、また12世紀サレルノ湾沿いのアマルフィにはアラブ人の植民地があり、街中アラブの建物や物質がつくられたからアラビア文字はそこから流布したであろう。シチリアー島のパレルモのパラティーノ礼拝堂天井にもアラビア文字が見られ、パレルモの王宮の宝物館にもアラビアの宝物が飾られてあった。これらには装飾としてクーフィー文字が記銘されているのである。陶器にもアラビア文字が書かれており、ラヴァルタの聖ジョヴァンニ教会堂の椅子にそれが嵌めこまれている。そこのモザイク装飾もイスラム様式である。
- 1987-10-30