≪商業の自由≫の理念と現実 : アントニオ・ジェノヴェージと1764年「大飢饉」
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概要
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当時ナポリ王国大使の秘書としてパリに在ったフェルディナンド・ガリアーニの伝えるところによると、1764年7月18日の勅令によってフランスが穀物取引(輸出入)の自由化に踏み切った背景には、南イタリアの飢饉の原因をめぐる論議が大きく影響していたという。すなわち、この前年から両シチリアを危機的な状況に陥らせていた「大飢饉」は何よりもその政府が穀物の輸出を自由に認めていたことに起因するというのが穀物取引自由化の反対論者達の《唯一の抗し難い論拠》であったが、モルレーがマルゼルブに宛てた『穀物政策に関する書簡抜粋』を刊行して、これが事実に反することを明らかにするに及んで《決定的な一撃を与え、輸出の自由を決断せしめた》というのである。以上の経緯-その真偽は今は問わない-を報告し当のモルレーの小冊子も同封した64年7月2日付の摂政ベルナルド・タヌッチ宛書簡において、ガリアーニは、近く発布されるフランス王の勅令に対して《我々も同様の手段を講じなければ、我々に残された僅かな商業さえ奪われてしまうであろう》と警戒の念を表明している。やがて1770年の『穀物取引に関する対話』によって重農学派の敵対者として経済学史に名を留めることになるガリアーニが、この時点では恰も重農学派の代弁者の如く本国政府に穀物取引の自由化の必要性を説いている様はなかなかに興味深い。重農学派への共感・同調から反発へと転向したガリアーニの歩みは、18世紀後半の南イタリアの「経済学」の変質の過程を象徴的に示している。《商業の自由》liberta di commercioという標語に集約される英仏伝来の最新の「理念」が南イタリアの後進的な「現実」と遭遇したときに如何なる事態が生じたかは、今後一連の続稿において個々の経済学的著述家・政策当事者に即しつつ検討を加えていく予定である。その発端を明らかにすることが、この小論の課題となる。
- 1987-10-30