八聖人戦争期フィレンツェにおける政争と社会不安
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概要
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一三七八年七月フィレンツェで起こったいわゆるチォンピの反乱は、周知のように、毛織物労働者を含むフィレンツェの中・下層の住民il popolo mezzano ed il popolo minutoが既存の政府を倒し政権を掌握するに至った歴史的事件である。筆者は、この事件同時のフィレンツェ社会の全体像を若干なりとも最構成するために、この反乱の経過の分析と反乱に関与した住民の間に存在した結束と対立のあり方を観察することに関心を抱いてきたが、その結果、このような大反乱が起こるための前提状況は、実は意外にも時代を遡って追究される必要があると考えるに至った。この反乱の前提状況に関連したフィレンツェ社会経済史に関する研究は近年めざましい発展が認められるが、私見では、このような研究の成果を政治史の分野に反映させることがまだ充分にはなされていないように思われる。このような総合的な考察を行なうことは無論、容易な事ではないが、ともかくもこのような展望を持ってチォンピの反乱の前提と見做しうる諸要因を十四世紀中葉以降のフィレンツェの歴史の中に見い出そうとするならば、それらの諸要因の殆どは、実は一三七五年七月-七八年七月の対教皇庁戦争-いわゆる八聖人Otto Santi戦争-の時代に集中して見い出されるのである。 八聖人戦争の時代は、外交史においては、フィレンツェの伝統的なグェルイズム外交の転換期として評価され、また、政治史においては、十四世紀フィレンツェの領域国家としての発展とこれに平行した教会の伝統的諸特権の喪失の文脈、或いは同世紀中葉に始まる政治指導層内部におけるオリガルキーに立脚する旧市民と新興市民との対立の最終段階に位置づけられている。一方、社会経済史においては、八聖人戦争の時代を含む一三七〇年代は、好況の六〇年代に対して状況が逆転する時代と見做されている。 本稿では、八聖人戦争期のフィレンツェをチォンピの反乱の前提となる諸要因が収斂する場としてとらえ、この都市の政治的背景を小状況、社会経済的背景を大状況として設定する。そして、小状況と大状況の両面からこれらの諸要因を考察し、筆者が多少なりとも関心を抱いているチォンピの反乱に関する研究をささやかながら補足するものとしたい。
- 1986-03-15