ダンテとロダン「考える人」
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概要
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「バルザックを完璧に理解した最初の人間はロダンである」と言いきったのは、イギリスの詩人、批評家アーサー・シモンズであった。シモンズは『象徴主義の文学運動』(増補版・一九一九年刊)のなかでこの発言に続けて次のようにバルザックを論じている。彼の言う「社会の歴史や批判であると同時に、その悪の分析、その原則に関する議論」を内に含む一連の小説を『人間喜劇』と呼称するに際してバルザックはダンテが『神聖喜劇』(『神曲』)の中において中世の世界に対して行ったことを、現代の世界に対して行なおうとした。散文を書くべく運命づけられた彼は、その制限のうちに自分の機会を見出しつつ、おそらく叙事詩的ないしは詩劇に最も近代的な一つの形式を自分で創りだした。それは、とにかく叙事詩が今日可能であるような唯一の形式である。ダンテの世界は、文字通りたやすく十九世紀の世界と比較された。「可視の世界」はまだ真に現代的な意味ではいまだ存在していなかった。詩の複雑さは唯スコラ哲学者の気をひいただけで、神学の一部であった。詩は依然として時代を表現することができ、しかも詩たりえた。しかし今日の詩は物語の魂だけのものをもはや表現することができない。それは恐しい文明の進歩から非難して、聖なる隠遁の場で諸々の街の声を無視して歌うのである。散文は細部に対するその限りない包容力を提示することから生れる。その細部に対する無限の力によって、バルザックが創造したように、小説は現代の叙事詩になっている。ダンテの時代の叙事詩の役割を十九世紀においてはバルザックが小説で果したのだということをシモンズは説く。シモンズにはまた一方「ロダン論」があって、ここではロダン「地獄の門」を論じ、ダンテの地獄篇の造型化がボオドレエルの「悪の華」の「悲痛と苦悶」の表現としての群像であると説く。シモンズの説くようにロダンは彫刻において稀にみる文学的イメージの豊かな世界を創りあげた。それはフィディアスのギリシァ彫刻からルネサンスのミケランジェロを貫くヨーロッパの彫刻の伝統と、偉大なる叙事詩の世界ダンテ『神曲』の交錯する造型であった。ロダンの「地獄の門」は個々の人間関係の文学的イメージの氾濫のために遂にロダンの意識の中では完成を見なかったが、ロダンの意識を超えて、最も西欧的なるものの真髄の壮大な造型化であった。それは一口でいえば叙事詩の精神である。精神の交響楽である。ロダンがバルザック像を造ったのは一八九七年で、ダンテ『神曲』地獄篇を造型化し、その要である「考える人」を造ってから十七年後であるが、「地獄の門」はまだ完成していなかった。「バルザック像」はロダンの生前には日の目を見ず、ロダンの死後十二年ののち、一九三九年にロダンを敬慕する美術家たちによってモンパルナスの町かどに建てられたという。あの極度に抽象化された量感の芸術はロダンの同時代人にはその真価を認め難かったのであろう。さきに引用のシモンズのバルザック論でも言うように、ダンテとバルザックをつなぐ叙事詩性を造形の世界で実現しようとしたのがロダンである。ロダンの「地獄の門」はまさに、叙事詩的世界の造型化である。シモンズの言う「細部に対する無限の力」をロダンは「地獄の門」の一つ一つの人間の造型に生かそうとして遂に完成し得なかった。しかしこの叙事詩性はバルザック的な散文の「人曲」の世界からだけ考えられるだろうか。私はバルザックとともに十九世紀フランス文学の一方の雄であったヴィクトル・ユゴーをここに想起せざるを得ない。
- 1985-03-30