ヴィットリア・コロンナ : tra Riforma e Controrifoma
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概要
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Mi voleva grandissimo bene, e io non meno a lei.More mi tolse uno grande amico.(彼女は私にほんとうに大きな幸福を願っていた。私もそうだった。死は私から一人の偉大な友を奪ってしまった。)ヴィットリア・コロンナの死後、老ミケランジェロはこう語った。どのミケランジェロ伝をひもといても必ず登場するこの有名な友情は、一五三八年頃(すなわちヴィットリア四十八歳、ミケランジェロ六十三歳)に始まり、以後、一五四七年の彼女の死まで続いている。少なくともミケランジェロの詩を読む限りにおいてはヴィットリアこそが彼を信仰の世界へ立返らせたのであり、いわば宗教的な友情--ロマン・ロランはこれを"神における二つの魂の熱情的な一致"と呼んでいる--とでもいうのであろうか。そしてまたミケランジェロに詩の出版を勧め、詩人ミケランジェロの誕生を促したのもヴィットリアであった。 Un uomo in una donna, anzi uno dio per la sua bocca parla/ond'io per ascoltarla, son fatto tal, che ma'piu saro mio.………………O donna che passate per acqua e foco l'alme a' lieti giorni, deh, fate c'a me stesso piu non torni.(一人の女性の口から、男が、いや神が語りかける。彼女の言葉を聞くと私はもはや自分ではない。…………ああ涙と燃える心で魂を永遠へと導く女性よ、私が二度と自身に戻らぬようにしておくれ。)これはミケランジェロがヴィットリアによせて書いた多くの詩の一つである。ところでヴィットリア・コロンナはルネサンス後期のイタリアにおいて最も有名な女性の一人であった。この頃はベンボにより提唱されたペトラルキズモ全盛の時代であり、数多くのいわゆるペトラルキストと呼ばれる人たちの詩が数多くあらわれるのであるが、ヴィットリアもそうした詩人の一人だった。しかしながら彼女の場合、今日においてはもちろん当時においてさえ彼女の詩自体の魅力よりはむしろ、例えばカスティリオーネが il Cortigiano の序文で、"私は彼女の徳を常に聖なるものとして崇めた"と記しているような彼女の生き方と教養(これは高貴な家柄、社会的地位あってのことであろうが)が高い評価を得る要因となったように思われる。彼女の詩の創作は、ナポリで文芸サロンを主宰していた時期のもの、夫ペスカラ候死後に彼の武勲をたたえ思い出をうたった時期のもの、修道院で暮らす彼女がひたすら神を讃えた時期のもの、以上の三つに大別される。一般的にいって十六世紀のペトラルキストたちの詩は魅力に乏しいとの評価がなされており、ヴィットリアの場合もどうやらその例外ではないらしく、容易とは言い難い彼女の多くの詩を読むことは徒労に終わったという感がなくはない。クローチェは"La lirica ciquecentesca"の中でヴィットリアについては彼女の行動を特色づけた"serieta"を評価しながらも(con quella serieta, Vittoria impronto qualque cosa facesse)、"詩人"としては ma non era uno spirito di fantasia e poesia と決めつけている。しかしながら私がここで扱おうとしているのは"詩人"ヴィットリア・コロンナではなく、ヴィットリアとミケランジェロを結ぶ深い絆ともなった宗教の世界におけるヴィットリア・コロンナである。ヴィットリアの生きた時代は、神聖ローマ帝国の統一が、またローマ教会の統一が崩壊しつつある時代だった。彼女の生涯は、その前半はナポリで文芸サロンを主宰していたルネサンスの典型的な gentil donna の歴史であり、その後、宗教改革の影響下では、イタリアのカトリック改革派のある一派の思想とその運命に深く関わっている。つまりイタリアの宗教改革の歴史において一五一三-一七年の第五回ラテラノ公会議から一五四二年の間に盛んであったバルデスの流れをくむ福音主義的なカトリック教会改革の動きに彼女は深く関わったのである。一五四二年にはローマに異端尋問所が設立され、ベルナルディーノ・オキーノの亡命という大事件があった。(この前年、一五四一年にはナポリの福音主義の指導者バルデスが死去している。)オキーノが逃亡し背教した事件はイタリアにおけるカトリック改革運動の大きな曲り角となった。これ以後、イタリアにおいてカトリック改革に関心を持っていた人々は、殉教を覚悟するか、亡命するか、いわゆるニコデモの徒となるか、あるいはローマ教会に忠誠を誓うか、これらの中のいづれの道を歩むかという決断を迫られるようになるのである。ヴィットリアはこのオキーノと深い関わりを持ち、その後はトレント公会議の穏健派の代表的人物、枢機卿レジナルド・ポールと深く関わった。ヴィットリアの立場はある意味で一貫性に欠け、曖昧な印象をまぬがれえないのであるが、ヴィットリア・コロンナの宗教性に関して論じた人々は、ともすれば彼女はカトリックかプロテスタントかといった単純な宗派的な問題として扱ってしまうという
- 1981-03-31