ヴェネツィアの貴族
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概要
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その確立に十四世紀いっぱいを費したヴェネツィア貴族階級は、一四二三年の人民集会 Concio の全機能の消滅とあいまって、不動のものとなった。人民集会の廃止は、支配階級としてのヴェネツィア貴族階級の合法性を保証するものにほかならなかった。貴族の集会であった大議会 Maggior Consiglio は、今や、委託ではなく自己本来の力による主権 Corpo Sovrano に上昇したが、それはドージェが自治体のポデスタから支配者Signoria, Dominum へと移行したこととならぶものである。ドージェの制度は一貫して国家の団結の象徴として、国家の発展における継続感を印象づけた。十五世紀に入ると、ヴェネツィア共和国は、確立した貴族階級の力を背景として、力強い前進を開始した。長年にわたるジェノヴァとの抗争に勝利をおさめたことによって東地中海における覇権が確立して無敵の海洋帝国を誇るとともに、本土にむかって侵略にのり出し、やがてミラノ、フィレンツェ、教皇庁、ナポリとともにイタリア半島を分割する強力な陸上国家となった。こうして東と西に顔を向けるようになったヴェネツィア共和国は、やがて広大な版図を領有することになる。いまやこの国家は、その基礎として、東方貿易ということのほかに本土における土地所有という二重構造を具えるようになる。この事実は、後述するように、ヴェネツィア貴族の性格に大きな変化を与える伏線となるのである。今ここで複雑なヴェネツィアの行政機構をあげることはさけるが、一言にしていえば、その政治組織は多元性 Pluraliti の支配であった。しかもそれは、あらゆる起りうる弊害をとりのぞく要心ぶかさと、感情におぼれない客観性によって運営されていたことは周知のとおりである。ヴェネツィアにおいては指定された家柄のすべての男子は、非嫡出と合法的に廃嫡された者をのぞいて、二五歳以上は大議会に出席する権利をもち、このメンバーが貴族と規定された。彼らは毎日曜の午後のこみいった手続きをともなう選挙のために大議会で集会した。貴族の系図は、法制長官Avogadori del Comun によってまもられ、その黄金書libro d'oro に記載されていないものは大議会に出席できなかった。大議会に出席することのほか、貴族のみが、行政の委員会、コレッジォ、元老院、十人会のような会議での投票権を行使した。いわゆる各種の行政官 Magistrati、そのほか地方の司政官、大使職は貴族に限定された。コレッジォ、十人会、駐塔大使(ローマ、ウィーン、マドリッド、パリ、コンスタンティノープル)、主要都市ならびに重要な島の司政官 Podesta、元老院の小委員会のメンバー、小数の海軍の幹部などをあわせると、その数は約六〇人であった。その数に、病気中、旅行中の者、許されて自己の業務についている者などを合わせると約百名に達した。これら百名ほどが共和国の要職ということになろう。大使職を除くたいていの職の任期は六ヶ月で再任は許されず、任期終了後は、要職につくことのできない隔離期間 Contumacia がおかれて、その間は元老院に出席するか下級職につくことができるだけであった。以上のべた約百のポストをふくめて、共和国全体に八百以上のポストがあり、それらのほとんどは任期が短い。これらの約三分の二はヴェネツィアの都市内で働く行政官であり、約百五十は本土関係の職種である。そのほかの約百にのぼるポストは外国への使節、ガレー船乗組の司令官、戦時中の各種臨時職であった。しかしこれらの職が、貴族全体にまんべんなく平等に分配されたわけではなかった。ヴェネツィア貴族は均質的で一枚岩の集団であるというのは神話であるにすぎない。たしかにヴェネツィア貴族には個々の顔がなく匿名的であるというのは事実であった。二、三の例外を除いて特定の個人の精密な伝記が少く、貴族全体が均一的にとらえられてきたのは事実である。しかし当然のことながら、貴族階級は決して一様のものではなく多様性をもつものなのであった。
- イタリア学会の論文
- 1980-09-15