「ゼーノ」におけるフェティシズムの意味
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概要
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ズヴェーヴォの作品に編みこまれた精神分析的な要素に関心を寄せたのは、一九二三年六月五日付の《Piccolo della sera》に掲載された、トリエステ在住の批評家シルヴィオ・ベンコによる《La coscienza di Zeno》の書評が初めてであった。それ以来いろいろな曲折を経ながらも、ズヴェーヴォは精神分析小説の作家として衆目に認められて、今日にまで至っているのである。ここでいう精神分析的な態度とは、個々の人間存在に個有の潜在内容を、その多面的で重層的な代弁者である顕在内容を通じて探りあて、人間存在の内部で抑圧された心理内容を自覚させることによって、病いを治そうとする試みにほかならないのである。即ち一個の人物の無意識下にある抑圧された心理内容が顕在的に表現される時、当事者の覚醒した意識のもとでその関係性を発見し、解釈するという作業によって、自己認識を深化させ、"もう一人の私"を発見しようとする態度こそ重要なのである。こうして《Zeno》を軸とするズヴェーヴォの一連のゼーノ系列の作品が(La novella del buon vecchio e della bella fanciulla, Vino generoso, Una burla riuscita, Il vecchione, Le confessionidel vegliardo, Umbertino, Il mio ozio, Un contratto)、精神分析小説として発展していったのは、「精神分析が独自の技術をとおして人間の意識の中に個性化していくすべてのものを、その技術にまったくとらわれることなく、自らのために理解する能力」を彼が有していたからであった。このことは、書くことは自分自身をよりよく識るためだという彼の主張と合致しているのであり、彼の作品が"開かれた"ものだと言われる点にも深くかかわってくるのである。つまりズヴェーヴォの分身でもあるゼーノが、彼に降りかかるいろいろな出来事についてあれこれ解釈を加えはするものの、なにひとつ決定的な判断を下さず、自らを絶えず二律背反の状態に置こうとするのは、彼が自己をよりよく識ろうと自己分析を試みれば試みるほど、自己の深層に潜むものの曖昧さや奇怪さに気づかざるをえないからなのである。こうしたことからわかるとおり、ズヴェーヴォは、風景を描写するにしろ、登場人物の心理を斜述するにしろ、それらが現実に現われた様子をそのまま忠実に写しとろうとする態度とは無縁なのである。彼にとって重要なのは、自らの内面に潜む絶えることのない神経症的な世界を、一人の虚構の人物であるゼーノ・コシーニに託して探究することであった。作家ズヴェーヴォと主人公ゼーノが結びつくのは実にこの点においてなのである。他の点においては、ゼーノは虚構の作品世界に生きるまったく独創的な人物なのである。しかしながら《Zeno》を中核とする一連のゼーノ系列の作品に、「執拗な自伝的要請と自分自身から出ようとする創作上の要請との衝突」が色濃く滲みでていることも否定できない事実であるが、このことはズヴェーヴォの文学が、従来の文学の範疇を越えた文学を指向していることを証するものにほかならないのである。こうして神経症の世界を我が身に引き受けることを強いられたゼーノにとって自己の存在は、一瞬一瞬が完結した規則正しい時間の配列の中で知覚されるものとはなりえず、過去が現在時へと収束し、また未来が現在時に収斂されるような時間体系の中で知覚されるのである。したがってゼーノの知覚的時間は、「絶えず変動する価値観によって判断される相対的な内的時間」なのである。しかしながら、小説を時間芸術のひとつの範疇としてとらえるならば、ここに重大な障壁が立ちはだかることになるのである。つまり小説が依拠する「言語は連続する単位がたえず前に進む線条的な表現形式であって、それはまた一時性、連続的継起性、非可逆性という時間の三つの特質に支配された媒体である」という、小説にとっての根源的な限界が存在することである。ではこうした限界を乗り越えること、即ち本来的には線条的な言語を使用しつつも、それによって可逆的な同時性を獲得することを、ズヴェーヴォはいかにして可能としたのであろうか。
- イタリア学会の論文
- 1980-03-10