農村ファシズムの社会的基盤 : Valle Padana Ferrara の事例
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概要
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いかなる社会集団(階級、階層)がファシズムを支持したのか、運動体としてファシズムの社会的構成の広がりは如何に在ったかという問題は、二〇年代初頭から様々に論じられてきた。イタリア・ファシズムの支持基盤として、サルヴァトレッリに始まる「中間層テーゼ」に多くみられる「第一次大戦によって決定的な打撃を受けた周辺化又は没落しゆく中間層ないしそのあるセクター」という解釈に対し、大戦によってむしろ利益と力を得て、新たな地位と政治的役割を求める「上昇する」中間層とするデ・フェリーチェの定義が、その後大きな反響を呼んだのは、記憶に新しい。又、イタリアのファシズム研究の関心は、運動期=起源を中心とするものから、六〇年代以降、体制期のそれに移行した。こうした体制期の政治、経済、社会、文化諸システムの実証的な研究と同時に発展して来た地域史研究によって、各地の、特に農村ファシズムの運動形成のダイナミックスがより詳細に分析されて来た。本稿は、その《典型的地域》と呼ばれたポー河流域地帯でも、とりわけボローニャと並びその大衆的運動の中心地であったフェルラーラ農村の社会的基盤の成立過程を課題とする。選挙統計では、一九年まで社会党の最強の地盤(得票率六〇・一%、全国平均三二・三%)であったエミリアは、二一年には最多のファシストを議会に送り込んだ(三八議席の中、七議席)。懲罰遠征の開始とその全国化-大衆的運動の確立の契機となった squadrista による二〇年一一月、市庁舎襲撃事件の地ボローニャとフェルラーラとの一九-二一年総選挙結果の比較は(表-一)、フェルラーラの特異性を示している。ボローニャの社会党及び共産党、人民党の後退は、「一種の生態学的範囲内でも説明され得る屈折」であるが、フェルラーラの場合は、ファシズムを含む国民ブロックの一九年:一二%から二一年:六九%への増大をもって初めてその意味を知る事ができる。更に同一選挙区内における他県との対比、及びフェルラーラの都市部と農村部の比較、アチェルボ法下の二四年のファシズムを主体とする「大リスト」特票率九五・一%(中北部平均でも五〇%を下回っている)も、ファシズムの支持基盤の典型性を物語っている。イタリア・ファシズムは都市で生まれ、農村で成長した。第一次大戦後、数多く蘇生した参戦主義者の排外的、愛国主義的な小グループの一つとして一九年三月二六日ミラノでムッソリーニによって結成された「戦斗ファッシ」(一〇〇名)は、二一年五月総選挙前二ケ月間に著しくその成員を拡大し(六月-二〇万人)、翌二二年五月、三二・二万人を数えるイタリア第一位の組織に躍進した。この飛躍的発展を生み出したのは農村であり、しかもその農村は、ラティフンディウムの封建的土地所有関係に基づき、更には強力なクリエンタルを基礎にした社会的諸関係の中で諸個人が社会的不統合によって孤立、アトム化し、従って戦後の男子普通選挙施行による社会党、人民党の二大大衆政党の成立や、その下位組織の労働総同盟、イタリア勤労者連合の拡大に示される大衆の政治参加に殆ど無縁であった南部(プーリアを除く)ではなく、より資本主義的に発展した集約的な経営が優勢であり、又伝統的に社会党の地盤で、極度の社会的緊張の状態にあったポー河流域のエミリア、中部トスカナ、南部プーリアであった。A・グラムシは、二一年に「二つのファシズム」-都市と農村の区別を指摘し、当時のファシスト・イデオローグのA・ランツィロは、「都市ファシズムは、例え曖昧ではあっても理想主義的な政策を有する英雄的な運動であるのに反し、農村のそれは、大小地主階級の利害を担う徒党である。」と述べているように、前者はナショナリスティックなイデオロギーを紐帯とする全国的な政治運動を志向し、参戦派の元革命的サンディカリストを中心にした退役将校、元アルディティ、学生、失業ジャーナリスト、未来派等の大戦というインパクトによって根なし草化、周辺化した危機的中間層の同質的な社会的構成を基礎に、一九-二〇年のファシズムを代表していた。二一年以降、農村ファシズムは、地方的に限定された地主反動的な性格が顕著であったが、農民諸階級層を吸引する事によって、イタリアのファシズム成功に導いた。squadrismo の非合法的な組織暴力の使用と規成支配エリートの黙認は、農村での成功をもたらした重要な要因であり、一九年のファシズムには欠けていた。しかし、「赤い二年間」を閉めくくる工場占拠のジョリッティの収拾、二〇年一一月地方選挙の自由主義勢力の敗北による規成支配エリートのファシズムへの接近は、農村の特有のものではなかった。大衆的基盤を獲得する条件は、農村の各階層の中間集団にファシズムの組織を接木するかあるいは、丸ごと、とりこんでいくことにあった。都市には欠落していたが農村に存在した要因に、第一に、他の社会集団-特にその地?</abst>
- イタリア学会の論文
- 1980-03-10