十四世紀フィレンツェのおける毛織物生産
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概要
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十四世紀のフィレンツェ毛織物工業の実情を再構成するために必要な経済的性格をもつ新データを発見することは誠に困難な課題であり、実際、無数のフィレンツェ内外の古文書を参照したにもかかわらず、この経済部門の初期史研究のための充分な新データを我々は発見することが出来なかったと言わねばならない。当然 こういった史料欠除のため、また部分的には中世の経済に関する歴史研究の方向が変化したこともあって、少くとも我々のテーマについての歴史認識は、すでに過去のものとなった一九五五年の国際歴史学会において著名な歴史家たちがそれまで蓄積されていた史学的成果を綜括した水準に止っていると言えるであろう。しかしながら我々の印象では、このテーマが歴史家によって無視されて来た事実は単に史料が欠除しているという理由ばかりではなく、その責任は中世後期のフィレンツェ毛織工業の諸現象を常にある種の先見観念によって考察してきた経済史家の側にもあると言わねばならない。容易に想起され得るように、フィレンツェの毛織物工業史は歴史家たちによって常に十四世紀のいわゆる経済「不況」もしくは「没落」との関連で論じられてきた。実際、一般に歴史家たちにとって、十四世紀の前半についてはジョヴァンニ・ヴィラーニによって提供されたフィレンツェ毛織物の生産量のデータと同世紀後半のそれとを対比することで充分であったようである。つまり、十四世紀初頭には十万反、一三三八年前後に七-八万反、そして一三七八年のチョンピの乱の時期には二万四千反となり、このように、フィレンツェ毛織物生産の下降カーブは大体において十四世紀の経済不況もしくは国際商業取引量の減少のカーブに対応する、と。フィレンツェ毛織物生産のこういった傾向は歴史家たちによってもはや論議の余地のない共通意見として確認されている感じである。換言すれば、フィレンツェ毛織物工業の全盛期は、同都市経済の金融的・商業的繁栄期もしくは十四世紀前半であったと考えるのである。従って、フィレンツェ十四世紀後半における社会闘争は歴史的に妥当な説明のないままに同時代のフランドル諸都市のそれと同様な社会・経済的性格をもつものとされる。何れにせよ、十四世紀後半の経済「不況」は西欧の全領域において共通の性格を持ったという推定の下に、歴史家たちはフィレンツェと西北ヨーロッパの工業地帯の諸都市との間の歴史的類似性を観察することで足りたのである。しかしながら、仮にこういった従来の歴史橡を認容するとしても、我々は経営史料に基づく若干の研究が明らかにした経営組織の側面を除外すれば、市場、価格水準、生産物の種類といったフィレンツェ毛織物工業の多くの個別的側面についてほとんど何も知らないと言わねばならない。フィレンツェ毛織物製品の市場については、全ヨーロッパに拡がった繁栄期のフィレンツェ商人企業家たちが彼等の関心のある諸地帯における商業活動のために同都市の製品をたずさえて行ったという歴史橡が存在するようである。このような観点は、十四世紀前半に関するヴィラーニの示す生産量、即ちおそらくはイープルやガンといった同時代のごく僅かのフランドル都市のみが多分到達し得たのみの、中世工業都市にとってはおよそ巨大な数字を確認させるために必要であった。しかしこのような考え方は史料的に確認されたものではなく、誠に莫然とした不確かな歴史家の考え方の中にのみ存在したものであった。彼等によれば、十四世紀の四十年代に始ったフィレンツェ経済の危機が時と共にヨーロッパの多くの商社に影響を与えるにつれて、それに平行してフィレンツェ毛織物の販売機会は滅少したと言うのである。さて、フィレンツェに保存されている古文書の状態から考えて, 十四世紀の毛織物工業の景気変動を統計的にもしくは数量史的に把握することは全く不可能であることを知りつつ、我々は未刊、既刊の史料を利用しながら前述の経済部門の歴史を再構成しようと試みた。我々が使用したデータの大部分は羊毛と織物の販売に関するものと、多くのイタリア都市で作成された税関・通関の料金表から成るので、我々の分析視点は質的観点もしくは伝統的なそれとならざるお得ない。しかし、この観点による分析を通じて十四世紀フィレンツェ毛織物工業の進化に関して若干の究明を行うことが出来ることを望みたい。
- イタリア学会の論文
- 1980-03-10