トゥラーティと「征服の時期」 : 帝国主義時代における政治的指導の問題に寄せて・その一
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概要
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「いまやわれわれがひとつの新しい歴史的時代を迎えつつあることは、盲目でさえなければ、だれの眼にも明らかである。新しい人民的諸潮流がわれわれの政治生活に参加しつつあり、新しい諸問題が日ごとに生じ、新しい諸勢力が起りつつあって、これらについてはいまやいかなる政府といえども考慮しないわけにはゆかない。そして、議会における諸党派の入り乱れた現状自体、今日それらを分けている諸問題がもはやかつてそれらを分けていたのとは同じでないことを示している。人民的諸階級の上昇の動きは日ごとにその速度を早めている。しかも、これはすべての文明国に共通の動きであり、また万人平等の原則に支えられた動きである以上、これを抑止することはできない。人民的諸階級がかれらの経済的影響力ならびに政治的影響力からして受けてしかるべき分け前を獲得するのを妨害しうるなどとはなんぴともゆめ思うべきでない。現行の制度に味方する者たちにはとりわけひとつの責務が課されている。すなわち、これら人民的諸階級に対し、かれらは将来の夢からよりもはるかに多くを現在の制度から期待しうること、かれらの正当な利益は現在の政治的社会的秩序の内部にあっても十分に保護されうることを納得させるという責務、しかもこれを事実でもって納得させるという責務である。これら人民的諸階級の登場が新しい保守の力、新しい繁栄と栄光の要素となるか、それとも逆に祖国の運命を覆すつむじ風となるかは、主として、これら人民的諸階級に対するわれわれ立憲的諸党派の態度のいかんにかかっているのである。」これは、一九〇一年二月四日、イタリアの下院において、立憲的左派(sinistra costituzionale)を代表する政治家ジョヴァンニ・ジョリッティがおこなった演説の結びの部分である。前年十二月サラッコ内閣によるジェノヴァ労働会議所(Camera del lavoro)の解散令に端を発して港湾労働者を中心とする罷業が起きたことに関して政府の着任を追及したものであったが、その際、かれは、いま引用した節からもうかがえるように、イタリアにおいても一八九〇年代以降顕著になりつつあったプロレタリア的=農民的大衆の経済的のみならず、とりわけ政治的な自己組織化の運動の発展に直面して、政治的国家が単なる強権的反動の域をこえてとりうべき前進的に指導的な対応策についての、ひとつの新しい総体的展望のもとに、政府の措置を労働者の正当な権利に対する強権的弾圧であるとして激しく非難するとともに、労働会議所についてはこれをむしろ労資関係の有効な調停機関として積極的に活用してゆくべきことを力説したのであった。そして、ありうべき対応策についてはかれはまた具体的にこうも述べた。すなわち、「わたしは資本家も労働者もともに法の下に平等に置くべきであるとおもう。両者ともに国家の承認を得た正当な代表機関をもつべきなのである。これは近代国家に課された新しい役割である。……国家はただ徹底して資本と労働の闘争の外に立つことによってのみ、社会の平安を維持する行動、そして時には双方を和解させる行動を展開することができるのであって、このような役割のみがこの分野における国家の真に正当な役割なのである、」と。実際、ここには、その直後の二月十五日に成立したザナルデッリ内閣への内相としての入閣にはじまって、一九〇三年十一月九日-一九〇五年三月十六日、一九〇六年五月二十七日-一九〇九年十二月十日、一九一一年三月三十日-一九一四年三月十九日の三次にわたって政権を担当し、第一次世界大戦前のイタリアにいわゆる「ジョリッティ時代」を現出させるなかで、かれの追求した政治的指導の基本綱領とでもいうべきものが明確に提示されており、当時の広く「立憲的」立場にあった政治指導層のなかでも、その広さと深さにおいてこれに比肩しうる構想をいだいていたのは、おそらくシドニー・ソンニーノのほかにはなかったといってよい。ただ、その場合、このやがてジョリッティと政権を競うことになる人物が有機体的国家観とひいては議会的代表制への一定の批判的留保のもとに「国家の政治を特定の階級の特殊的目的や特定の利益集団の利益に指し向けるのでなく、民族的共同体の最高目的に指し向けることを望む人々、国家とはひとつの有機的全体であって、その各要素は機能と利害の面において相互に緊密に結びつき調整しあうべきものであることを理解している人々から成る団体(fascio)」を極左派(estrema sinistra)勢力に対置すべきことを主張したのに対し、ジョリッティは議会的代表制の積極的肯定に立って社会党を筆頭とする極左派との同盟という方向における指導体系の確立を追求した。もっとも、そうとはいえ、およそ「立憲的」立場の根底には、そのような相違をこえて、あるひとつの存在的ともいえる不安が共通に宿っているのであって、これは、たとえば、「わたし
- イタリア学会の論文
- 1976-10-01
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