ジロデ・トリオゾンのイタリア留学(一)
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概要
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ルイ・ダヴィットの門下で育ち、新古典主義の環境にありながら、逆にダヴィット離反を意志し、ロマン主義の先駆者として特異な存在を占めるジロデ・トリオゾンは、その代表作《オッシアン》と共に、関心を寄せる者には、新しい問題を投げかけてくる。アナーの《新古典主義》には、次のようなジロデについての言及がある。「新古典主義運動は、それ自体の中に、それを崩壊する筈となった多くのロマン的力の胚種を孕んでいた。最初の、本格的なロマン派画家たちが、一七九〇年代末に現われ始めたのは、ダヴィットのアトリエ自体からであった。例えば、A・L・ジロデの始めは、ダビヴィットの弟子の中で、最も優秀な、忠実な存在であった。彼の《アルタクセルクセスの贈与を拒絶するヒポクラテス》は、新古典主義絵画の系列にある。一七九三年の《エンディミオン》には、ダヴィット形式の名残りが指摘されるが、ダヴィットの目的とする厳粛さは放棄された。マルメーゾン宮殿のため、一八〇〇-二年に完成された《オッシアン》の全く並外れた絵画で徹底約に断絶した」(Hugh Honour;Neo-Classicism, 1968, p.186)。このように、ジロデに新古典主義からロマン主義への移行での重要な位置付けを与えている。しかし、ジロデ・トリオゾンの名前は、この時代のフランス美術に特別の関心を抱く者以外には、殆ど注目を惹くことがないのが実情であろう。時代を同じくし、ウィンケルマン、メソグスといった古典主義者と関わりを持ちながら、幻想的な、超現実主義的な作品を残した、スイス生れのイギリス画家ヘンリ・フュゼリと対照的である。フュゼリは最近注目を浴び、日本でも最近の《みづゑ》誌にフュゼリ特集号があり、本邦始めてと言ってよい由良君美氏による要を得た紹介がなされた(昭和四十九年二月号)。イギリス本国ではアンタールの《Fuseli studies》(1956)以後、新らしくニコラ・パウエルの《Fuseli:the Nightmare》(1973)が出版され、ケネス・クラークの近著《The Romantic rebellion》(1973)にはフュゼリの項目がある。ジロデには、こうした目立った新しい研究書はない。しかし、ジロデを研究する人が全く居ないわけではない。殊に、アメリカの研究者レヴァイティーン(G.Levintine)のように、ジロデを専門に研究する貴重な学者もおり、《ガゼット・デ・ボザール》誌上に有益な論文を発表している。ジロデに関心を持つ人間にとり心強いことである。更に、ジロデ研究史上大きな出来事が一九六七年に起っている。ジロデの生誕二百年を記念して、彼の生地であるモンタルジス(Montargis)で、新装成った市立美術館がジロデ展を開催したのである。この展覧会カタログが、重要なジロデ研究資料となることは言うまでもないが、現在既に絶版となって書店を介して購入不可能である。残念ながら閲読を断念せざるを得ない。興味深いことに、このジロデ展より丁度十年前の一九五七年、アメリカのロード・アイランド・スクール・オブ・デザインの美術館で、ジロデと交渉があったイタリアの代表的な古典主義彫刻家カノヴァを中心とする《カノヴァの時代》と題する展覧会が開かれている。ジロデは、現在ルーヴル美術館所有の、カノヴァの肖像画スケッチを制作しており、カノヴァは、彼のパリ滞在の折、ジロデを含む多くのフランス美術家から歓迎されたが、殊に二度日のパリ行の際には、フイレンツェの美術アカデミーの使者として、ダヴィット、ジロデ、ジェラール、グロー、ゲランに、院友とする公文書を渡している(Ferdinand Boyer, Canova, sculpteur de Napoleon, in Le Monde des arts en ltalie et la France de la Revolution et de l'Empire, 1970, p.142)。更に、ジロデのイタリア時代の作品《エンディミオン》(一七九三)が、カノヴァの彫刻《死の精》(一七八七-九二)に多くを拠っていることがアナーにより指摘されている(Honour, op. cit., p.150)。《カノヴァの時代》には、ジロデの作品は展示されなかったが、両者の時代的背景を知る上で見逃がせないものであり、小冊子ながら展覧会カタログ《The Age of Canova;an exhibition of the neoclassic, 1957)はカノヴァ文献としても貴重である。
- 1975-03-20