前期「アポストリ」異端の宗教行動理念 : 十三世紀北イタリアの民衆的異端運動の一例
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概要
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いわゆる、「アポストリ」と自称する宗教運動が十三世紀後半から、十四世紀初頭にかけて、北イタリア、ロンバルディアにおいてひろまったことは、中世末異端史で周知の事実である。この「アポストリ」運動は、一二六〇年に始められ、その創始者は、パルマのゲラルドウス・セガレルリであった。かれは一三〇〇年、異端のかどで、焚殺される。ついでドルチーノという、予言的指導者によってその運動はひきつがれた。ところで、この運動の後半、ドルチーノの時代は、アルプス山中にひきこもり、法王派遣の異端十字軍との戦いという、受難の連続の歴史であった。一三〇七年、ドルチーノとその側近の指導者は逮捕され、拷問ののち、ゲラルドウスとおなじく焚殺されるのである。これとともに、その信奉者のあるものは、処刑をおそれて棄教転向し、他のものは南仏、トレンティノ、パドゥア、シシリなどへ逃亡離散した。こうして、事実上、「アポストリ」たちの運動は一四世紀初頭、消滅の運命をたどったのである。ところで、一二六〇年から一三〇七年まで、僅か五〇年にみたぬ生命しかもちえなかったこの「アポストリ」運動は、中世末の宗教運動史のなかで、大きな影響を残したものとは決していえない。いわばうたかたのように現われて消えた、きわめて小さな異端であった。もちろん、ドルチーノによって指導された後期は、十字軍の派遣にまでいたったのだから、当時のロンバルディアに、一種のセンセーションをまきおこし、一つの記憶されるべき一事件だったのだろうか。ドルチーノの叛乱について、神曲において、ダンテは数行をさいている。しかしそれ以上ではない。短命なこの「アポストリ」の運動は、十二-四世紀の異端運動史の中では、数ページをさくので十分であろう。かれらは、さほどユニークな神学理論の提出者たちでもなかった。そして一般的には使徒的生活理想の実践者の中での、はねあがりの一つであるぐらいに考えられているにすぎない。。後半のドルチーノもヨアキムとは異なる固有の終末論をかかげたという以外、とりたてて異端の思想史の中で特筆すべきものはなく、ましてやその前期のゲラルドゥス・セガレルリは、異端的なならず者の運動ぐらいにしか当時においてもみられていないのである。前期についての史料はそのためかあまり多く残されていない。にもかかわらず物好きにも、この「アポストリ」異端をとりあげようとするのはなぜか。その一つは、それが使徒的生活の理想をかかげた異端運動の中でのはねあがりの一つでありながらも、フリー・スピリット的異端にも通ずる、興味ある宗教行動理念を提示した異端であるように思えること、そしてもう一つにはその指導者をも含めて、その運動の担い手が、きわめて民衆的レベルの人びとであるということ、この二点からである。異端の中には、聖職者や修道士という、教養をもつ人びとによって指導されたものが少くない。これらの人びとは、いわば正統である教会側の理論家と、知識や発想の地盤をむしろともにしつつ、その中での解釈の相違、力点のおき方の相違から異端として断罪された人々なのである。ところが民衆にはそのような共通の発想の地盤がかけている。これらの指導者は、無知であるがゆえに、これら知識人的異端者などの議論をききかじりながらも、そこから勝手に、自らの主張と行動の理念をつくりあげ、ときに思いがけない逸脱をしてしまう可能性をはらんでいる人々であった。いったいかれらが、どこまで、キリスト教のかたいドグマから逸脱しえたのか。中世末、ヨーロッパの精神がどの程度の巾で、精神的混乱期に、その可能性をひろげえたか。このような関心にとっての一つの興味ある材料を民衆的異端は提出しているのである。この「アポストリ」の運動も、こういう点で、一つの好個の事例だといえるようである。「アポストリ」を本論の対象としたのはこのような理由からであった。
- 1973-03-20