アントニオ・フォンタネージの手紙
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概要
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アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi, 1818-1882)は、明治九年(一八七六年)当時の工部卿伊藤博文の創立した工学寮に附属する工部美術学校の画学教師として、彫刻家ラグーサ(Vincenzo Ragusa, 1841-1928)、建築家カッペルレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelletti, -1887)と同様、日本政府の招聘に応じ来朝したことはすでに周知の事実である。そして同十一年(一八七八年)、未知の土地での厳しい生活の障害に苦しみかつ来朝するかしないかの中に罹った病-脚気-に終始悩まされ、闘病生活にほとんど二年間をついやした後、帰国したのである。これまでわが国においては、フォンタネージについての伝記、履歴といったものは、あまり詳しくは記されていはいようである。「………孤独の運命というものが、画家の生涯を通じて彼の内面にその精神的諸価値を築き上げ、しまいにはそれが彼の芸術の拠となったのであったが、死後といえども相変らずその運命はつきまとって離れなかったのである。」祖国イタリアにおいてすら、生前には彼の直価はほとんど認められていなかったようである。一八九二年のトリノ、一九〇一年のヴェネツィア、一九〇二年の再度のトリノです各回顧展すらも、昔の弟子たちを主とした発案によるものに他ならなかったのであるが、こうして、おそまきながら彼の死後ようやく認められはじめたかのようである。一九三二年のトリノでの四三六点を並べた追悼五十年回顧展(トリノ市庁主催、レッジョ・エミリア市庁協催)が一つの契機とも云えるものとなり、脚光を浴びるに至ったのである。一方、フォンタネージの研究書といった類はきわめて少い。勿論モノグラフィーもいくつか出ているし、通史や十九世紀の絵画を取り扱う場合には必ず彼についてふれられているが、非常に独特で最も基本的かつ忠実にこの画家を扱っているのは、フォンタネージの弟子である画家マルコ・カルデリーニ(Marco Calderini, 1850-1914)のあらわした"Antonio Fontanesi, Pittore paesista", prima edizione, Torino, 1901; seconda edizione Torino 1925(改訂・増補)が、ただ一つの書と云えよう。この書は詳細な伝記的研究の賃料の網羅と、同時に師フォンタネージに関する記憶を十二分に駆使して書かれており、筆者自身画家の立場から作品、技術面の分析研究等多方面に及んでいる点からも貴重な存在といえるのである。次に紹介する二通のフォンタネージの手紙は、カルデリーニがその著書の中の「フォンタネージの東京滞在(一八七七-七八年)」を扱った一章に引用しているものである。生前日頃は非常に筆まめな方であったフォンタネージにもかかわらず、滞日中にはきわめて稀にしかもごく少数のイタリアの友人に手紙を書き送ったにすぎない。その上一通のごく親しい友人(弟子でもある)に宛てられたものすら、ナポリ出発から約一年余りの月日を経てはじめて認められたものである。他の一通は、いわば必要に迫られて筆を執るに至ったものであり、自分の病気回復のはかばかしくない折から、トリノ時代にかかりつけていた医者に何らかの助言を求めて書かれたのである。
- 1968-01-20