デ・サンクティス及びクローチェのアルフィエーリ論
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概要
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クローチェは、《アルフィエーリの悲劇作品は全ゆる演劇的な観念や先入主を捨てて、叙情詩(lirica)を、すなわち詩(poesia)を読むように読む必要がある》と伝っている。ここにクローチェのアルフィエーリの作品に対する考え方が明確に示されている。クローチェは、アルフィエーリの本質を、例えば"Bruto primo"や、"Bruto secondo"のような、自由を讃える雄弁な、政治的な意味をもったドラマの中にではなく、抑えがたいindividualismoの衝動の嵐の中にいる登場人物たちの内面の感情の吐露のうちに見出しているのであり、要するに、アルフィエーリをなによりもまず詩人として、激しい感情の詩人として把えているのであって、彼のドラマはそうした感情の反映した詩であるとするのである。クローチェのこうした見方は、感情とか個性とかいうものを重視するロマン主義的な雰囲気の中にアルフィエーリを置くものであり、その意味で、クローチェは、先述の如く、アルフィエーリをロマン主義という新しい文学の先駆者としているのである。以上がクローチェのアルフィエーリ論の要旨であるが、ロマン主義というものを理性の普遍性を信奉する啓蒙主義の劃一的な観念に対する人間の感情あるいは個性の反抗と考えるならば、アルフィエーリをロマン主義の先駆者とはっきり規定するクローチェの論旨はデ・サンクティスのアルフィエーリ論よりは首尾一貫していると伝える。そして、その後のアルフィエーリ論も、おおむね、クローチェの指摘した線に沿って展開しているようであるが(例えばヂュゼッペ・チタンナなどはクローチェのいうindividualismoをもっと発展させて、アルフィエーリの中にニーチェ的な超人思想を見ている)、しかしデ・サンクティスのアルフィエリ論には、荒けずりではあるが、クローチェにはないスケールの大きな魅力があり、とくにアルフィエリの自我意識と政治意識の結びつきについての指摘などは、その論究の不足を補いながら、新たに考察を加える価値があるものと思われる。
- 1968-01-20