U・コズモ著「青年時代」『ダンテ案内』第三章Umberto Cosmo : Guida a Dante, Torino 1947 Cap.III.La Giovinezza.pp.27-38
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概要
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青年時代初期ダンテはしばしば彼の家柄の古さと高さを示唆する。そして巧な暗示で、それが、ローマの出身であるように思わせる。(Inf., 第一五歌、七四-七八 Par., 第一六歌、四四)。彼は"皇帝クルラード"(Currado)によって騎士に叙せられ十字軍に従事して聖地で亡くなった曽々祖父を讃えている。(Par., 第一五歌、一三九-四八)。彼の曽々祖父の尊大さを、醜聞の種をまいた人である彼の従兄が、その犠牲となった血の復讐を示唆している。そして、群衆がキリストを祝福したあの同じ言葉で彼の母をたたえている。(Inf., 第八歌、四四-四五)。美しく優雅な妹のことにふれている。)V.N., 第二三歌)。ただ父親については語らない。それゆえ彼の家族のことを知るということは、ダンテその人に対する認識を総合することなのである。そして、この作業には、一方で<神曲>と<新生>の相関する部分が、他方で<ダンテ公文集>に収録された法的記録が答えてくれる。時に、詩人の言葉だけをたよりにしなければならない場合がある。かれの先祖や妻の場合のように。ダヴィドゾーン(Davidsohn)によって探ねあてられた、"かってアダムの子"、カッチャグイダ(Cacciaguida filius olim Adami)がダンテの先祖なのであろうか。ピァットリは<ダンテ公文書集>にその証書を記録していない。その真実性をつきとめられなかったからだ。その妻についても同じことがいえる。「わが女(つま)はパードの渓谷から来た」《Mia donna venne a me di val di Pado》とカッチャグイダは語る。だが「パードの渓谷」《val di Pado》というのは巾の広い表現で、そのためダンテ研究家は勝手気ままにその場所を定めてきた。パルマか、ボローニャか、フェルラーラか。おそらく、デル・ルンゴの説くように、この最後の土地だろう。だが、それも憶測を越えるものではない。
- イタリア学会の論文
- 1965-01-20