ダンテ『神曲』と昭和の作家たち
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概要
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昭和の作家たちがダンテの神曲を読んだのは、どの翻訳を通じてあろうかと思って調べてみると、意外にも生田長江訳(昭和四年八月、新潮社、世界文学全集(一)として出されたもの)が多い。このことは何を物語るか。大正期にすでに山川丙三郎、中山昌樹両氏の全訳が出ているが、山川訳は警醒社より地獄篇(大正三年)浄火篇(大正六年)天堂篇(大正十一年)と間をおいて出され、中山訳は大正六年、地獄篇、煉獄篇、天国篇と相ついで洛陽堂から出版された。この両者ともキリスト者として、ダンテへの傾倒から成され、その註も当時の出版事情の許す限りに於て詳細であったので、ダンテに関心をもつ一部知識人や、信仰の人のためにダンテへの導きとなったことは多大であった。しかし一般の人々に広く普及するには至らなかった。なぜならこれらの書物は、文庫本のような手軽な普及版でなかったし、事実当時としても相当の高価であった。註釈も一般人の目には相当にこみ入った感を与えたのである。ダンテは特に刻苦して近づかなければ理解しがたいという観念はとくにダンテ愛好家のあいだに一般的であった。大正五年十二月刊の古典文学研究会訳の「ダンテ作神曲」は、神曲をポピュラーな散文体で読みものとして提供したはやい試みのひとつであるが、この書物を大賀寿吉氏は次のように評している。「ダンテは由来ポピュラーなものに向かず、徹底的なる理解など普通のものに出来るものならず」とし更にこの本がCaryのVision of Danteからの重訳と称しながら地獄篇などさきに出た山川丙三郎氏の訳をそっくり借用したらしい態度の浅薄さを非難している。「荒地派」とは別にダンテの「神曲」の立体的な構造性から学び、またその詩としての前衛性、すなわちアンドレ・ブルトンが、一九二四年にすでに「未来派宣言」に於て、ダンテをシュール・レアリストの先駆と考えたと同じような意味での前衛性から学び、北川冬彦は現代詩の活路として、長篇叙事詩の構想から映画のシナリオにまで及ぶ新しい芸術の分野をひらこうと試みている。「現代訳ダンテ神曲」はそのための基礎的な作業ともいえよう。「荒地派」にしても北川冬彦にしても、ダンテの激しい批評精神と構造性という日本の在来の詩とは異質なものとの対面から、新しい詩を創造しようとしている点では共通したものを持つ。ダンテが真に日本の文学者たちの創造の養いになるのは今後ではあるまいか。(終)(1)拙稿「ダンテと日本人との邂逅」(イタリア学会誌、一二号)参照(2)京大、旭江文庫蔵本、古典文学研究会訳「ダンテの神曲」の訳者序文に大賀寿吉氏が書き込みされたもの。(3)上巻、大正十五年十二月十五日刊下巻、昭和二年五月二〇日刊(4)野上厳「長江先生訳、神曲に就て」(世界文学月報、第二九号)(5)関根俊雄「文章法序説」(昭和三十二年、明治書院刊)(6)猪野謙二「生田長江の生涯と思想」(「日本文学の近代と現代」頁二六二)(7)大正十三年(かの子三十四才のとき)七月、鎌倉雪の下に避暑滞在中、隣棟の芥川竜之介と交際した。「鶴は病みき」(昭和十一年発表)はそのときの印象をもとにした。(新潮社版「日本文学全集、年譜」より)(8)拙稿、正宗白鳥『ダンテについての成りたち』(比較文学・第五巻)参照(9)岩崎呉夫「岡本かの子伝」頁一七四(10)小説「花影」の見返しに煉獄篇五歌ピアの箇所を原語でかかげている。この薄幸の女人のことが、この小説のモチーフに関係しているからだろう。戦争小説「野火」に於ける描写。また「獅子文六とダンテ」という一文もある。(新潮、三十一年八月号)(11)荒地詩集、一九五二版はダンテに関してエッセイ一つと詩二つがある。鮎川信夫「あなたの死を越えて」の連作第一章「夜と沈黙」の第六連めに、やわらかな髪を腕にまき、彼は/暴風の夜を飛んでいった。/哀歌をうたいながら/ひとむれの鶴にまじって/永遠の刑罰を翼の中にさぐりつづけた/とある。これは、「神曲」地獄篇第五歌四六行のE come i gru van cantando lor lai, facendo in aer di se lunga riga, からのイメージの借用であることは明かである。また堀田善衛は「現代詩」と題する詩のなかの三番目の詩は「神曲」冒頭の句nel mezzo della camin di nostra vitaをそのまま標題としヴェニスのゴンドラの幻想をうたっている。(12)「ダンテ-ボードレール-私。その線がふとい鋼鉄の直線のように思われた。その他には誰もいない。」(太宰治「めくら草紙」新潮社昭和十一年一月、後「晩年」に収む。
- 1965-01-20