レオパルディ研究(一)
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概要
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ロマン主義と云う用語はいつの時代にも有効な言葉である。現代においても革命的ロマン主義と云うような使われ方をする。しかし革命的と云うような形容詞をのぞいたロマン主義、文学史上に云う、ある特定の時代の文学的潮流として云うロマン主義とは十八世紀末から十九世紀初期にかけてヨーロッパ諸国において見られた文学的傾向を指すことは云うまでもない。元来は一種の文学運動であったロマン主義は、やがてその影響力を拡げて、当時の時代思潮を支配するに至ったが、一口にロマン主義と云っても、それははなはだ漠然とした概念であり、その中に様々な要素を包含し、簡単に規定してしまうことは困難である。それはおのおの国の政治的、社会的事情、あるいは民族性の相異に従い、また時代の推移に従い、異なる面を持つものであるし、また文学上の表現にそれを求ようとする場合、その個々の文学者の個性に従って、そこに相異があるのは当然のことである。しかし、その反面、ロマン主義と云う枠の中でなんらかの共通点を持っているであろうこともまた真実である。ロマン主義の時代はまた「自由」が激しく求められた時代でもあった。ロマン主義は「自由」の意識と不可分に結びついている。しかし、ここで云う「自由」とは、狭義の、いわゆる政治的自由をも含めて、もっと広い意味での自由、つまり、全ゆる束縛からの自由を意味するのである。従来どちらかと云えば、啓蒙主義につながるものとされていたアルフィエリをはっきりとロマン主義の列の中に組入れ、十八世紀的、啓蒙主義的傾向と明確に一線を画する、十九世紀的な、つまりロマン主義的な、イタリアの新しい文学の先駆者と見做したのはクロチェーである。もっともクローチェはアルフィエリを"protoromantico"と呼んでいるが。そして、クローチェはアルフィエリを啓蒙主義から区別して、ロマン主義の系列の中に置く理由として、アルフィエリには個性というものに対する強い認識があったからとし、また、アルフィエリをドイツの「シュトルム・ウント・ドランク」運動と近親性のあるものと見ている。クローチエの説によれば、個性というものの認識がアルフィエリの生来の性格と相俟って、彼を全ゆる束縛を拒否する、"liber'uomo"として、ニーチェ的な"ubermensch"として見做すことになり、飽くなき自我の自由の主張者としてのアルフィエリの像が浮び上ってくるのである。このようなあらゆる束縛を拒むアルフィエリの自我意識が、当時ようやく起りつつあったリソルジメントの動きと結びついて、イタリア民族の自由と独立とを鼓吹するリソルジメント運動の先駆者、指導者的存在としての位置をアルフィエリに占めさすことになったのである。イタリア・ロマン主義とリソルジメント運動との結びつきはアルフィエリに始ったと云えよう。一般にイタリア・ロマン主義は、このようなアルフィエリ的な傾向に沿って理解されているようである。こうしたアルフィエリ的な系統をたどって行けば、その代表的な存在として、フォスコロ(Ugo Foscolo 1778-1827)、ベルシェ(Giovanni Berchet 1783-1851)、とつながる思う。イタリア・ロマン主義は、かように、少くとも、その前半においては、アルフィエリ-フォスコロ-ベルシェとつながる系譜を中心線として、ロマン主義とリソルジメント運動とが結びつき、自我の主張と民族の自由と独立の主張が互いに隔合し、英雄主義を鼓吹し、"liber'uomo"の観念、ニーチェ的"umbermensch"の観念を標傍するような形をとっていると考えられる。しかし、これに続いて現われる二人の偉大な存在、アンゾーニ及びレオパルディをもまたこの延長線上に置くことが可能であろうか。結論を先に云えば、それはいささか無理であると思える。マンゾーニ及びレオパルディはアルフィエリ-フォスコロ-ベルシェと続いた流れとはそれぞれ独自な立場をとり、かつまたマンゾーニとレオパルディの両者は同じロマン主義の範疇に入れられながらも、互いに相反する両極的な立場をとっている。マンゾーはリアリスティックな傾向を、レォパルディはリリックなパセティックな傾向を取る。この両者はジャンルの上でも対照的である。マンゾーニは長編小説"I promessi sposi"をもってその代表作とされているが、それに反してレオパルディは散文小説・戯曲、そして叙事詩をもしりぞけ、抒情詩こそ真の文学芸術であるとした。レオパルディがアルフィエリ-フォスコロ-ベルシェの線とは異る立場にあると云った。では、レオパルディをしてイタリア・ロマン主義の中においてどのように位置ずけるか、またレオパルディに特異な位置を与えるとすれば、それはどのような要素においてであるか、以下に、レオパルディの作品を検討しながら、少しく詳細に述べて行きたい。
- 1962-12-30