鴎外森林太郎による獨逸語NACHRICHTENの二つの翻譯語「情報」と「状報」
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概要
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獨逸国留学四年帰日航海途上森林太郎26才「明治21年8月16日泊于哥倫坡観市逢釋興然于梵語学院来拝空王像」(還東日乘)記し9月帰国。明治24年坪内逍遥と「没理想論争」交わし、没理想は没主観、没主観は没能感にして没感情すなわち没「情」なりの趣の「早稲田文学の没理想」明治24年12月「月草」誌の論が明治25年に及ぶ。此当時森林太郎30才本郷団子坂観潮樓に在る。下りて「明治31年3月20日高楠順次郎(大学梵文学講座)来り訪ふ梵文の事を談ず」(明治31年日記)とある。此頃半紙手筆書「塵屋」(梵文渡来記佛書覚書など)残す。此時代の父林太郎を森於菟は「佛蘭西語の学習や唯識論の聴講ばかりでなく多方面に勉強続ける」と回想(岩波鴎外全集著作篇第30巻昭和27年刊後記)。明治37年春上演歌舞伎脚本「日蓮上人辻説法」にて唯識般若典籍「金剛経」(核心が般若波羅密多心経)に係わる問答闘わす日蓮上人記述有り、逆上って明治20年11月9日ライプッチ滞在森林太郎は「今伯林東洋語学校の教官」井上哲次郎巽軒(大学印度哲学講座)と逢ひ巽軒「佛の大乘は因果を説く」と記しある(獨逸日記)。明治32年軍医部長森林太郎37赴任地小倉第12師団に在り、師団司令部は師団長始め将校の「孫子」研究盛にしてまた森林太郎に「明治32年12月12日クラウゼヰッツ戦論を偕行社にて講ぜしむ」とある(小倉日記)。(註)獨逸国留学時代暫々逢った井上哲次郎巽軒(素行会員)は「孫子諺義」(山鹿素行)明治44年刊行に叙ある。(東京都立中央図書館蔵)
- 一般社団法人情報処理学会の論文
- 1990-03-14
著者
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