disciplineによる国民統合 : W.C.バグリーにおける「規律」概念の再考 (<特集>教養の解体と再構築)
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概要
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「規律」はW.C.バグリーの理論における鍵概念であった。彼にとって、「学校規律」は「自己統治」を意味していた。そしてその「自己統治」とは社会科された「自己」における「精神的態度」としての統治の技法であった。当時に「学校規律」は、「民主主義的な統治」という観点から「自己統治」を「個人の自由の行使」と両立させるものとした。彼は「規律化された意志」が「国家の備え」であると主張した。そしてそのような国家秩序は基本的には学校秩序に由来していた。彼の「ナショナリズム」の理論もまた「学校規律」と同様に「社会的」で「精神的」な性質を持っていた。 バグリーにとって、「規律」は「知性」とともに獲得されなければならなかった。彼はアメリカ人に「知性の義務」の下での「知性的な献身」を持つべきであると要求した。「知性」を伴う「規律」を通じて、人々は「民主主義」のための知的な国民主体とならなければならなかった。アメリカは「文化の共同体」になるべきであると彼は考えらのである。 1938年までに、「規律」と「民主主義」とを関連づけたバグリーの理論は、二つの段階を経ていた。一つが「規律」と「自由」の統合、すなわち「規律化された自由」の概念である。「規律」に基づく「自由」を通じてのみ、アメリカにおける「民主主義」は国家社会主義と共産主義と戦い、「世界的支配」を達成しうるのであった。 もう一つの段階が、「規律の機能」によってもたらされる「教育可能性」と「人間性」に対する、バグリーの深い信頼の表明であった。彼は当時高名であった二人の心理学者、C.C.ブリガム及びL.M.ターマンと論争した。「反決定論」の立場から、彼は「規律の機能の完全なる否定」という彼らの考えを批判した。「教育可能性」と「人間性」を通じて、「普通人の集合的卓越性」と「文化的統合」を伴う「民主主義」を実現することを絲したのである。しかしながら彼はブリガムとターマンの優生学的見地を否定しなかった。彼は「文化的統合」を主張したが、それによって彼は、教育を通じた「血の混合」を避けようとしたのである。言い換えれば、彼は「血」の純潔性を協力に支持していたのである。彼の「民主主義」、「自由」そして「人間性」は彼の優生学的思想と矛盾していなかったのである。 結論づけるなら、バグリーの「規律」の概念は以下の四点に要約できる。第一は、彼が日常的な子どもの統治の方法を分析するために「規律」の概念を使っていたこと。第二は、彼が「自己統治」あるいは「自己統制」という考えを内的統治の方法として採用していたこと。第三は、彼が、「民主主義」を通じて近代国家を形成する巨視的な権力を「自己統治」を通じた微視的で内的な権力と関連づけていたこと。第四は、「規律」を通じて彼が、権力の問題と同時に共有された知識あるいは知性の問題を示していたこと、である。
- 1999-09-30