村落における教育費負担の意味構成 : 埼玉県一村落の教育費負担形態の変容過程を事例として
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概要
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本稿の目的は明治期における教育費負担の民衆的位置づけを明らかにすることにある。先行研究においては多くの場合、教育費負担と教育関心は直結して語られてきた。しかしむしろ教育費に限らず共同負担という行為は、その実態からいって村落共同体の"慣習"や"秩序"を定式化する側面があるということができる。とするならば負担によって顕在化するのは共同体の慣習であって、必ずしも学校に対する所有意識ではないということができる。こうした視点に立つならば、民衆が依存せざるを得なかった共同体の"慣習"や"秩序"が、どのような形で彼らを拘束したのかということを明らかにする必要がある。教育という営為が民衆にとってどのような意味をもったのかということを解明しようとするならば、(教育費に限らない)出資あるいは負担そのものが民衆生活の一部分においていかなる意味を持っていたのかという位置づけを行うことが必要なはずだし、そうすることによってまさに民衆の生活における"教育という営為"の位置づけが可能となるはずである。筆者が本論において述べようとすることを要約すれば以下のようになる。1.1880年代から1890年代にかけて村落内での教育費負担の方法が変化したこと。そうした徴収方法の変化に伴って実際に教育費を負担する階層も移行した。そのことは負担の意味にも変化をもたらしたということ。2.村落における教育費負担は、村落の階層秩序によって負担の割合が決定された。それ故にその負担行為によって民衆が自覚するのは、学校の"共同所有"よりも"自らの村落内での位置づけ"であったこと。3."村落内の位置づけ"は授業料の多寡にもあらわれたため、教員の子どもに対する態度にも違いがあったこと。そのことによって"村落内の位置づけ"は学校の内部においても強化されたこと。調査対象とした村落における教育費負担は以下のように変化する。まず明治16年までは人口割が設定され、その負担額は土地および財産に対する賦課に比べて大きかった。負担基準は各戸の人員数に応じていた。つまり負担基準は所有財産の多寡ではなく個人消費の可能性に置かれていた。しかし明治17年からいわゆる戸数割が導入されることでこの出資基準は変化する。戸数割は共同体の拘束力を表面化させるという性格をもつ。すなわちここで村落内での教育費負担は"共同体内での位置づけ"を基準としで行われるようになる。この結果負担の出資先に対する観念は表面化せず、共同体への依存の意識が先行することになる。村落内における負担構造は学校(教育)を村落内の秩序に先行させることはさせず、あくまで"村落秩序の表出形態"として学校を成立させた。本稿の胃頭に述べておいたように、民衆にとって"学校"とは、彼らがその生活において依存せざるを得なかった生活秩序に先行するものたり得なかった。このような教育費負担形態により、民衆の学校に対する共同所有意識は潜在化させられていくのであった。
- 1999-06-30
著者
関連論文
- 梶山雅史編著, 『続・近代日本教育会史研究』, 学術出版会刊, 2010年11月発行, A5判, 511頁, 本体価格6,400円
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