パリにおける「住み込み乳母」(1865-1914)
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概要
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19世紀後半、フランスでは乳母制度と発展し「乳母産業」と称されるほどであった。なかでもパリのブルジョワ女性たちは、社交生活のために、自ら母乳を与えることはせず、自宅に住み込ませた乳母に子育てを委託していた。このような乳母は「住み込み乳母」と呼ばれ、19世紀最後の10年間に急激に増加した。「住み込み乳母」はブルジョワジーの階層誇示の象徴としての役目を担わされ、人目につく仰々しい衣装を着て、毎日公園や街頭に現れた。すなわち「住み込み乳母」の増加は、労働者層との差異化を計ろうとするブルジョワたちの見栄の産物であり、社会改良家やモラリストの非難の的となった。彼らは、「住み込み乳母」の利用は乳母の子どもたちを母親から引き離し、悲惨な状況に追いやることになっていることを暴き出し、この「住み込み乳母」の子どもの問題を乳児死亡率の高さに結びつける。すなわち「住み込み乳母」が、当時のフランスの特徴と考えられた、人口減少、兵士要員の不足、さらには国家の危機の元凶であるとされたのである。しかし20世紀に入ると、あまりにも普及しすぎた「住み込み乳母」は、ブルジョワジーの階層誇示の象徴としての役割を失い、その典型的な衣装は消滅する。批判を受け、「住み込み乳母」の弊害に気づかされたブルジョワ女性たちは、乳母の子どもの問題を解決するため、保育施設への援助を行った。また殺菌技術の発達により危険性の薄らいできたほ乳瓶を利用する召使の女性を雇うようになっていく。「住み込み乳母」に変わってブルジョワジーの象徴として現れてくるのが、自ら母乳を与え子育てをする母親像である。ただ、現実には赤ん坊の世話をする召使の女性はまだ必要であり、彼女たちは乳母、あるいは子守と言う呼び名で存続しつづけた。