岡山孤児院の解散と運営体制の経緯(2)
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概要
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本稿は、岡山孤児院が解散する1926(大正15)年の運営体制の経緯をまとめたものである。すでに同院の運営体制の展開を10期に分けて解明し、その第10期の最終年の運営体制を、茶臼原孤児院の事務所、養育部を中核とし、それに岡山事務所が加わる体制の中でどう展開し、8月25日の第弐拾参回評議員会後の「解散」決議後もそれがどう引き継がれたかを明らかにした。また、その前提としてこの「解散」をだれが主導したかを確認したが、それは大原孫三郎評議員が主導し、実際の手順は柿原政一郎が、職員や殖民と協議するかたちで進められた。このため、茶臼原孤児院はさらに縮小されるが、これまで事務所が担っていた仕事と役割は「解散」後も残され、養育部も男女各1家庭舎体制は継続し、在籍児はあまり減少せず石井記念協会に引き継がれることになった。さらに殖民は、ブラジルへ移住する者がいて少し減少したが、3ヶ所の殖民地は残り、「茶臼原農村」は先の石井記念協会と3ヶ所の殖民によって継承されることを確認した。
- 共栄学園短期大学の論文