『トロイラスとクリセイダ』と17世紀翻訳本における史的現在の比較研究 (創刊記念合併号)
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概要
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史的現在は過去に起こった物語を,目前で起っているかの如く生き生きと描写する為の手法であると言われてきた。1991年よりの拙稿4編で,チョウサーが史的現在を或る動詞や助動詞に付与する規範を明らかにした。それは「戦う」よりも「刺す,切る」のように,より具体性を持つ動的動詞に付与され易く,また,意味的に動性に欠ける動詞でも,物語の進展に重要な鍵となる暗示的事件や主人公の大きな心理的動揺には付与されている。特に物語中での音表現に史的現在が多用されている事から,彼の作品が基本的に"読み聞かせ文学"であった事との関連に注目した。つまり音表現の史的現在は,聴衆が朗読者の声を通じて物語中の音を聞くという音の二重性,もしくは重奏性のための工夫であると結論づけた。チョウサーの死後,1478年にキャクストンにより『カンタベリー物語』が出版され,1598年にスペートによりチョウサーの作品群が,そして推定1630年代に『トロイラスとクリセイダ』の3巻が不明の人物により翻訳,改訂された。本研究は17世紀初頭の読書時代における翻訳本で,この史的現在の工夫がどのように取扱われているかを調べた。その結果チョウサーでは同じく3巻で51の史的現在の出現が翻訳版では13に減少している。特にチョウサーでは現在形付与が顕著な副詞nowと共起するBe動詞に関しては全て過去扱いであり,心理的動揺の現在形付与も全くない。13の内,現在形付与は話者の心理が反映される法助動詞に多発している。韻律上の必然から現在形が付与された例が3例あり,典型的な史的現在の使用は2例のみである。以上の事などから読書が確立した時代にあっては史的現在への要求が低かった事が解る。この事実はチョウサーの史的現在が,正に読み聞かせ文学としての生き生き表現の為の工夫であったと再確認した。