ライプニッツの様相概念に関する一考察
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概要
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ライプニッツの「可能性」概念には少なくとも2つの意味(1)を見出すことができる。そして, この2つの意味の差異は, とりわけ形而上学的著作と論理学的著作の間で顕在化してくるように思われる。それら2つの意味については, ライプニッツが, 混乱して使用したのだという解釈も見られるが, ライプニッツ自身は次のように述べている。「個体的なもの, もしくは偶然的真理の可能性は, それらの概念の中に, それらの原因の可能性, 即ち神の自由決定の可能性を含んでいるからである。この点で, それらのものの可能性は, 種や永久真理のような『神の意志を仮定しないで, 専ら神の悟性に依存しているもの』の可能性とは異なっている」(G. II. 51. アルノー宛書簡)。ここからも明らかなように, 彼は, その2つの可能性概念の差異について, 十分に意識していた。そして, このことは論理学的著作の中でも次のように言及されている。「現実に存在するものは, 存在するもの即ち可能なものであって, その上に何ものかである。しかし, すべてを考慮しても, 現実存在するものにおいて, 存在のある度合以外の何が考えられるか私には分からない。…しかし私は, 『あるものが現実に存在すること』が可能であるということ, 即ち, 可能的現実存在をいおうとは思わない。これは本質自体にほかならないからである。…従って私は, 現実存在するものは, 最も多くのものと両立する存在, 即ち最大に可能な存在であると考える」(C. 376. “Generales Inquisitiones de Analysi Notionum et Veritatum”.以下『一般的研究』と略す.§73).<BR>従って, これらの可能性概念は, それぞれの分野で異なった意味で用いられているばかりでなく, 後により詳細に検討するように, 非常に重要な哲学的役割を担わされていると考えられる。そこで, ここでは, こうした可能性概念の二重性の背後に彼がどのような問題意識を抱いていたのか, あるいはまた, このような二重性を認めることにどのような哲学的な意図が込められていたのかについて考えてみたいと思う。そのためにまず, 可能性という概念がそれぞれの分野でどの様な意味で用いられていたのかを見てみよう。
- 科学基礎論学会の論文