アン・ストーラーの植民地研究と東アジアからの応答可能性 (差異の表象)
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概要
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本稿の目的は,蘭領東インド社会を専門にする歴史人類学者アン・ス卜ーラーの近年の論考の検討を通じて,植民地主義と人種主義を再考することである。植民地研究および人種主義研究が現在直面している理論的課題を洗いだし,新たな方向性を探るための指針として彼女の論考を捉え,その可能性の中心を探る。とりわけ以下の2つの論点を前景化しながら議論を進めていく。一つ目の論点は,植民地人種主義の性格づけの問題である。ストーラーの植民地人種主義論は,現地人だけでなく,現地化した白人貧困層や混血者といった白人系の集団の範疇化を論じるという特徴を持っている。もしそうした存在の主題化が新奇に映るとすれば,それは我々自身の思い描く植民地社会像が当時の植民地統治者のものとずれてしまっているからだ,と彼女は主張する。すわなち,<支配者でも被支配者でもないような〉周辺化された白人系の人々の存在によって人種支配が矛盾に晒されることを偏執的なまで、に恐れたのは植民地権力に他ならなかった。本稿では,ストーラーによるこの指摘の理論的意義を「ハイブリディティー」論や「民族誌的国家」論といった近年のポストコロニアル論の重要概念と照らし合わせながら浮き彫りにすることを試みる。二つ目の論点は,<比較〉にまつわる理論的問題である。ストーラーは近年,既存のポストコロニアル論の分析枠組みの限界を指摘しながら,比較がこれからの植民地研究の重要な主題であるべきだと繰り返し主張している。彼女が特に注意を促すのが,19世紀以降のあらゆる種類の帝国にとって,知・技術の蓄積および支配の正当化の手段として比較が極めて重要な意味を持ったという歴史的事実である。もし,こうした比較への着眼が目新しく見えるとすれば,それは現代の植民地研究者が「地域研究」と「理論」のどちらか,あるいはその両方に慣れすぎてしまってからに過ぎない。一方,我々が批判的に論じようとする19,20世紀の帝国主義者にとって「比較研究」はむしろありふれていたのである。本稿では,こうしたストーラーの提言を検討した上で,日本植民地研究について,比較の問題を絡めつつ若干の考察を加える。そのことによって,ストーラーの問題提起にたいし,東アジアの植民地研究からどのような応答が可能か探っていきたい。