古都と電車--大阪電気軌道の奈良乗入をめぐって
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概要
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日本の都市では、JR(旧国鉄)と民営鉄道の駅が隔たって立地する例が多い。奈良市もまたその典型例の1つである。奈良をめぐる鉄道史は1890年12月の大阪鉄道線(現・JR関西本線)開通にはじまり、92年2月に同線が大阪の湊町まで開通し、以後奈良をめぐる客貨輸送の動脈として機能してきた。ところが、同線は生駒山地を避けるため、奈良市から南下して亀ノ瀬を経て大阪府に入る経路を採り、再度北上して大阪市に至るため、地理的に非効率な経路を余儀なくされ、開業時の路線延長は25哩43鎖(約40.7km)にも達した。しかも、奈良駅は市街地の西端に当たる不便な位置に置かれた。しかし、この経路は、大和川水系の流路に相当し、古代以来大坂と大和の流通を支える経路であった。それに対し1914年4月に上本町一奈良問で開業した大阪電気軌道線(以下、大軌。現・近畿日本鉄道奈良線)は、大阪市からほぼ直線に東進して奈良市に至る地理的効率性に秀でた経路を選定して開業時1)の路線延長は19哩13鎖(約30.6km)で、大阪鉄道線より約10㎞も短縮した。しかも、延長約4.5kmに及ぶ生駒燧道の掘削、最急勾配40治、奈良県下初の電気軌道として開業した点も加えて、その技術的先進性は高く評価されている。しかし、奈良市の交通機関として同線を見た場合、それらに加えて、奈良公園や行政機関に近接して駅を設けた利便性という点も見逃すことはできない要素であろう。そうした大軌線について、これまで近畿日本鉄道へつながる企業史的特性について論じた研究は少なからず存在するが2)、奈良市の利便性改善について考察したものは少ない。もっとも大軌の奈良乗り入れをめぐって、行政史料を詳細に検討した安彦勘吾の研究3)が存在するが、主な問題意識は利便性改善よりも当時の市会をめぐる政争との関わりにあり、必ずしも大軌の乗り入れと利便性改善の関係を明らかにしているわけではない。また、電気軌道の市街地乗入についても、起点である大都市側では少なからず論じられたが4)、終点である中小都市ではほとんど論じられていない5)。市区改正や都市計画事業との関係が密接な大都市での状況をそのまま地方都市に当てはめることができないのを自明とすれば、地方都市での検討は大都市と周辺都市の問の認識や条件の相違を考える上で重要な問題を提起するものと思われる。そうした点を踏まえ、本稿ではその予備作業として、大軌の奈良乗入に関する文書を史料紹介的に取り上げ、若干の解題的考察を付すことで今後の検討の一一助としたい。
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