〈摩擦〉〈震動〉〈感染〉―宮澤賢治『セロ弾きのゴーシュ』におけるトルストイの芸術論と石川三四郎の動態社会美学のインターフェイス―
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概要
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ロシアの文豪レフ・トルストイ(1828~1910年)はその芸術論『芸術とは何か? What is Art?(Chtotakoye iskusstvo?)』(1897/98年)の冒頭・第1章に,彼が或る「もっともありふれた」新作オペラの下稽古に立ち会った時の光景の描写を置いている。そのストーリーは,あるインドの王のもとに結婚相手が連れてこられると,王は歌手に変装しており,花嫁はその歌手に恋してしまうが,最終的にその歌手が王だとわかってハッピーエンドに終わるという「まず空想としか思えないような,およそばかげきったしろもの」である。インド人が花嫁を連れて来る行列の場面の下稽古中,行列が進み出すとホルンと朗唱が合わなくなる。とたんに「指揮者は,まるで災難でも降って湧いたように身震いとともに指揮棒で譜面台を叩く。なにもかもがやめになり,楽長はオーケストラのほうに向きなおると,フレンチ・ホルンに食ってかかり,なぜ調子をまちがえたのかと,まるで馬車屋の捨てぜりふそっくりの,じつに口ぎたない言葉で罵倒する。そしてまた,何もかもが最初からやりなおしである」。こうした楽長の強権的言動の描写はさらに続く。「こんどは何もかもうまく行っているように見えた。ところが,またして指揮棒が鳴り,楽長は,弱りきった,にくにくしげな声で,男女の合コ ーラス唱隊を叱りつけにかかる」。そしてまた「なんだい,いったい,死んでいるのか,君たちは? 牝牛め! 木偶の坊みたいにぼんやりつっ立ってるのは,息の根がとまっているのか?」,あるいは,お喋りしていたコーラスガールたちに向かって「おい,君たちはここへお喋りに来たのか? ぺちゃぺちゃやりたきゃ自宅でやれ。その赤ズボンはもっとこっちへ寄って俺を見るんだ。やりなおしっ」等々。ここで,トルストイが敢えてオペラという最もコストのかかる蕩尽的音楽ジャンルを選んだ理由は,それが歌手,オーケストラ,合唱といった音楽家だけでなく,衣裳,舞台美術,大道具・小道具等々を含めて多くの「労働者」から成り立っているからである。搾取する側の象徴である楽長は「自分の芸術という大きな事業に没頭してほかの芸人どもの感情なんかをかえりみてなどはいられない大芸術家の音楽上の伝統だということを知っているので,平気でそういう横暴をやってのける」のだが,実はこうした横暴な楽長も「労働者」同様疲弊している。当時必要額のわずか1%しか国民教育に支出されていなかったロシアで,大都市の「芸術」関連の学校,施設に巨額の補助金が出され,何十万という労働者が「芸術の要求を満たすために,過酷な労働のうちにその生涯を過ごしてしまう」状況,あるいは,たとえば学校や劇場で音楽家が「鍵盤や絃を,非常にはやく掻き鳴らすことを覚え」るよう学習させられることによって,鈍感で一面的な「ただ足や,舌や,指をねじりまわすことしかできない専門家」で満足するようになってしまう状況等,こうした芸術至上主義的趨勢にあってもはや不分明になってしまった問い,すなわち「芸術とはそのためにこれほどの犠牲をしてもいいほど重要なことなのか?」という問題視こそが,トルストイの芸術論の出発点にある。
- 2011-03-31
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