ヴェーバーに於ける「諒解行為」概念の留保或いは喪失事件 : 経済倫理の古典モデル、蜜蜂の寓話 / 童話を手掛かりに
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概要
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本稿の課題は、マックス・ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』で中心的役割を担っていた「諒解行為」という概念が、遺稿『経済と社会』(1920年以降)の何処にもに見当たらない・行方不明になるという、奇妙な「言語喪失事件」の謎を紐解くことである(1~4は予備的分析)。(1)ヴィルヘルム・ヘニスは、ヴェーバーの作品に「隠された」ニーチェの視線を「中心問題」として掘り起こしている。それをサブルーティンと呼べるなら、もう一つのサブルーティン(「隠された」フッサールの視線)がヴェーバーの作品にある。フッサールがヴェーバーに与えた影響について、ケネス・ミューズが論証しているところを検証する。(2)実際に、「諒解行為」概念の留保或いは喪失事件と直接に係わるのはシュタムラーの方であるが、現象学的思考の枠内で「言葉のエポケー」が成り立つかどうか、フッサール(『イデーン』1)との討議関係の中で明らかにする。(3)自然主義とロマン主義に対峙するヴェーバーの目線、マンデヴィルの「蜂の寓話」解釈を巡る三つ巴の論争状況。シュタムラーはロッシャーとクニースに同じ傾向の「ロマン主義的由来」を見て、国家的法規制の必要を訴える。ヴェーバーはシュタムラーに自然主義の残滓を看破し、唯物史観を批判する際の彼の法規範論で一挙に露呈する綻びを指摘する。彼の曖昧な「合意」概念を批判し、「シュタムラーが言うべきであったのは、」厳密には「格率」であり、後にこれが「諒解」概念だと但し書きされる。(4)「カテゴリー論文」の一年前に出版されたボンセルスの蜜蜂の童話と先の寓話を比較すると、「社会風刺」のスタイルで国家の法規範を推奨する前者に対して、後者では新ロマン主義のスタイルであるが、国家的協定と「社会保障」が主題化される。マンデヴィルの成人世界(啓蒙主義)に見切りを付けて、「諒解」ゲマインシャフトに潜むコンフリクトを直観的に分かりやすい仕方で物語る、児童文学作者ボンセルスのミッション産業化(宣教団体の植民地主義経営)批判の動機解明に迫る。(5)「法」と「習律」を区別するシュタムラーを批判する中で、ヴェーバーが導入するカントの「格率」概念を語用論的に分析し、「一般的合意」から「諒解行為」概念へ、更に「理想型」形成に及ぶ思索の跡を辿り、「諒解」という言葉の取得から喪失或いは一旦留保(「言葉のエポケー」)に至るまでの事件の経緯・動機を理解し評価する。(6)「蜂の寓話」が功利主義経済好みの道徳的アレゴリーであるのに対して、「蜜蜂の童話」が専ら社会主義的「共同経済」の理想型に近い立場の子弟に好まれた、ドイツ的風土の政治的メタファーである点に着目し、これをヴェーバー「理解社会学」の解釈課題として論じる。(7)附論で「ソシュールとヴェーバーの接点」を模索したのは、どの言語圏でも「諒解妥当」なゲマインシャフト形成と評価に寄与する、「一般社会学言論」講義に見通しを付けるためである。自明化した明証性を問い直し、音楽社会学的合理性を構成する聴覚イメージとコンセプト、「言葉の連鎖」に注目する。
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