世界遺産白神山地における森林資源の歴史的活用 : 流木山を中心に
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概要
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一九九三年、鹿児島県の屋久島とともに世界自然遺産に登録された白神山地は、秋田・青森両県にまたがるブナの原生林、斧を知らない森林景観として多くの人々が訪れ、原初的かつ豊かな自然を色濃く残す山地として広く知られている。 本稿は、江戸時代の白神山地にあって、同山地の森林資源がどのように活用され、資源保護はいかなる形でなされたのか、その歴史を解明することを目的としている。近世津軽領において、流木(ながしぎ)と称された薪材は、白神山地西部の海岸地帯では製塩用の燃料等に、東部の目屋野沢(めやのざわ)においては近世都市弘前の日常燃料として、同山地から岩木川などの河川を経由して供給された。十八世紀前半、津軽領において流木が行われた山沢は三六二に及び、当時にあっても流木山の伐り尽くしという事態が次第に進行していたのである。 寛政七年(一七九五)、弘前藩によって目屋野沢は弘前に流木を供給する備山(そなえやま)として公的に位置づけられ、薪材の伐採は「十ヵ年廻伐」という輪伐のルールが規定され、森林資源の保護が打ち出された。しかし、毎年一五万本という流木量を確保するのは、当時の山役人にとっても困難なことであった。目屋野沢における白神山地の森林資源は、流木のほかに尾太(おっぷ)銅鉛山などの製錬に用いられる、鉱業用燃料としても不可欠であった。 十八世紀末にいたって、尾太鉱山は稼行を停止したが、その後も流木の生産は継続されたことから、伐り出す流木山は次第に奥山へと移行し、森林資源の保護を目的とした輪伐のルールは名目となり資源の枯渇は一層進むことになった。さらに、津軽領流木山の保護に欠落していたのは、伐採後は植林をせずに、資源の回復を天然更新に任せてしまったことであった。したがって流木の調達は藩が構想したようには展開せず、藩領全体の森林資源の枯渇が進む中で、保護策も空しく目屋野沢の森林資源の枯渇は進行したと考えられる。
- 2010-12-28
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