清末の中央官制改革について
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概要
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阿片戦争に始まる中国近代史は「西方からの衝撃」に対する「東洋の反応」であった。当時の中国王朝の清朝は満州族を支配者とする征服王朝であったが、中国歴代王朝の中でも最も隆盛を極め、同時に最も中華思想を体現した東洋的な国家であった。しかし阿片戦争の敗戦以後、圧倒的な強さを誇る西洋列強の前に清朝は幾度となく屈服を余儀なくされ、多くの主権を喪失することになった。これら西洋列強との接触の中で、中国人も西洋文明の東洋文明に対する優越を認めざるを得なかったが、それはなお"堅艦利器"に代表される物質文明に関してのみであり、依然として精神文明では東洋の方が優れていると考えていた。しかし、日清戦争の敗北によって、物質的な面だけでなく制度や思想などの精神面でも西洋の優位を認める集団が知識人層にも現れ、変法運動が行われるようになるのだが、この運動はごく一部の士大夫によるものであったため失敗に終わったばかりか、却って極端な守旧派の台頭を招き、ついに義和団の乱を惹起するに至った。この乱は東洋的な旧思想に基づく西洋への最後の挑戦であったが、八力国連合軍によってあえなく鎮圧された。この義和団の乱によって、いかなる者も従来の統治機構では、中国が弱肉強食の時代を生き抜くことは不可能であると悟り、以後中国の様々な階層の人達が様々な運動を行っていくのであるが、それらは革命運動であれ、改革運動であれ、いずれも西洋化という言葉とは無縁ではありえなかった。その中でも中華の主としての清朝による改革は最も東洋的な考えを持つ人達によって行われた運動として注目に値するものではないかと思う。その清朝による改革の中心は専制君主制から立憲君主制への移行であった。この一連の改革運動中、特に官制に関する改革については、漢唐以来本質的にはほとんど不可侵の存在であった東洋的な古い官制をどのように現状に対応できる官制に改革するのか、また改革は統治階級である官僚層それ自身が対象となるものであり、立憲政体に基づく官制改革は官僚にとって不利なものといわれ、直接彼らの利害に大きく関わってくる問題であったため、官僚たちが改革に際してどのような行動をとったのかという二つの点が特に注目されるところであろう。そこでこの論文では官僚たちが彼らが信じてきた儒学に代表される中華的政治思想とは全く異なる西洋的政治思想をどのように受け止めたか、そして自己の利害の擁護と清朝の再建という相反する課題の中でどのような改革を行ったかを、光緒三十二年(1906年)に行われた清朝の官制改革に焦点を当てて見ていこうと思う。なお年月日は原則として旧暦を用いる。
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