方法としての「信」 : 疑問・批判の根底(一)
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概要
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本稿は、近世中期の儒者・荻生徂徠(1666~1728)の思想の理解を通じて、学問における「信」と「疑」の問題の考察を試みる。われわれは、疑問を懐き、批判的であることの価値を信じて疑わない。確かな知は、懐疑から生まれる、というのが近代の常識である。この点は、福沢諭吉(1834~1901)が『学問のすゝめ』で説いて、説得力がある。ところが、荻生徂徠の『徂徠先生答問書』には、疑問を抱くことに対する抑圧とも読みとりうる部分がある。それは、時代遅れの思考と蔑棄するにはどうやら勿体ない何かを示唆しているようなのである。学問における懐疑の根底には方法的な「信」とでも言うべきものがあって支えており、そうしてはじめて懐疑も思考も豊穣となるのではないか、ということである。まず、徂徠の学問観の成立の経緯を辿る。徂徠の方法としての「信」は、徂徠の学問観全体のうちに位置付くからである。徂徠は、人の心のあり方、知見、思考が、時間と空間とに制約されてあること、また、その制約故に自らのあり方を自覚できないことを、「クルワ」論として展開する。そのいわば自閉的状態を越え出る営みが学問なのである。そしてその先に方法としての「古文辞学」が位置する。言葉を古代に返し、古代社会における言葉と、それに対応する制度文物を明らかにしようとする。制度文物をもたらした精神は、一朝一夕には知り得ない。それは、長い時間をかけて習れ熟する果てに望みうることである。そこに「信」が要請される所以もある。(以下、次号)
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