平安時代の多武峯寺と興福寺: 対立・抗争について
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概要
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興福寺は、藤原氏の氏寺であったが、その全盛期(安和の変~後三条天皇即位以前)に於いては、必ずしも同氏の信仰(或いは処遇、貴種の入寺等)の第一位にあったとは考えがたい。同氏は、この時期は、皇室や他の諸貴族との関係のためか、むしろ、天台・真言両宗を第一としていたようである。また、藤原鎌足の墓所の多武峯寺は天台宗延暦寺の末寺となっていた関係もあり、藤原氏内では、その怪異への対応は高く位置付けられていたと考えられる。しかし、藤原氏没落期(後三条天皇即位以後)になると、同氏(師実)は興福寺に大きく接近し、息男(貴種)を同寺にも相次いで入寺させたうえ、同寺を大和国司に推挙したものと考えられる。こうした状況のもとで、かねて、末寺になるよう要求していた多武峯寺に対する矛先は一層鋭くなってゆく。
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